絵を読むということ

*絵を、見る。ペンで、絵の具で、水彩で切り紙でさまざまなもので描かれた、絵を見る。ぼくはギャラリーだとかそういうのが好きなもんだから、もしかすると人より絵を見る機会が多いのかもしれない。ただそこで、さいきん気付いたんだけど、絵を見ることしかしていないのはもったいないんじゃないか?絵を見る、つまり「描かれたもの」だけを見るというのは、絵を見る上でじつはヒジョーにもったいないことをしているのかもしれない、と思ったのだ。

きっかけは、ことば遊びだった。電車に揺られながら、「後ろに進む」とか「あまりにも余りすぎだ」とか、いろんなことばを組み合わせて遊んでいたのだけれど、そのなかで「絵を読む」という組み合わせをしてみた。絵を、読む。見るのではなく、読むのだ。本に例えると分かりやすいかもしれない。書かれた文章たちをサーっと見るのではなく、ぼくたちは読んでいる。読むというのは、その文章の真意や時代背景、作者の意図や伝えたいことを感じたり考えたり、咀嚼する、ということだ。

これを「絵」にあてはめると、「絵を読む」という行為にしてみると、ぼくはどんなふうになるだろうと思ったのだ。名画で例えるなら、ミレーの「落ち穂拾い」という絵がある。絵を見るだと、ただ描かれた絵を鑑賞する、だけど(あくまでぼくの感覚の話です)、絵を読むだと、さまざまなことを考えざるをえない。そもそもなぜ落ち穂を拾っていて、落ち穂というのはその時代どういうもので、拾っている人たちはどんな服装をしていて、さらにどうしてミレーはこの風景を絵にしたのだろう?

「絵を見る」のではなく「絵を読む」と変えてみただけで、そういうことを想像するようになった。一枚の絵をみて、描かれたもの以上のことを、その奥や先のことまで読み取ってみる。どうしてここにこの絵があるのか、逆に言えば、ここになにも描かれていないのか。なにを描きたくて、どう描いているのか。答え合わせが重要ではない、一枚の絵からそうして思いを馳せる行為こそが、じつは贅沢な時間なんじゃないかなぁ。絵を見るだけじゃ、絵がすごくもったいないのかもしれない。一流の絵たちは、見るだけじゃ上澄みしか見れていないのかもしれない。その奥の源流をたしかに見つけたいという思い(エゴめいたもの)が、ぼくにはあるからかもしれないけど。

今年も、たくさん読んでくれてありがとうございました。
大晦日だからってそれっぽいことを書くのをやめて、思いついて思って考えたことを書くことにしました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?