答えは何も、分からなくたっていい。

*もう4年くらい前のことだけれど、ふと、分かったことがあった。あのときの違和感、もやもやが、なぜか今、合点がいって晴れたのだ。あれは駅ビルの地下で、友人たちと飲んでいるときのことだった。たしか音楽家と、画家と、ぼくの3人で飲んでいたところに、もうひとり誰かがたまたまやってきたんだっけな。

話の内容もおぼえている。どんなルートでそこにたどり着いたのかは分からないが「五大元素」の話をしていたんだ。世界を形作るとされた5つの元素、なんだっけ?となり、ひとりひとりが思い出したり考えようとしていたところ、後からやってきたひとりがすぐさまスマホでピピピッと検索をして、答えを言おうとした。それを見て、それ以外の3人が一斉に、「いや、言わないで!」と制止したのだ。ズッコケ3人組もダチョウ倶楽部も顔負けの、息ぴったり具合だった。

あの息ぴったり具合は気持ちよかったのだけど、きっと3人とも、あの場でいきなり答えを調べて言われることに、ものすごく違和感をおぼえたのだ。だから、制止したんだし。でもずっと、どうしてあの行動に違和感をおぼえたのか、今までぴったり言える理由がなかった。答えを言われるとおもしろくないと言えばそうなんだけど、もっと解像度の高い答えがありそうで、もやもやしていたのだ。その霧が、なぜか4年越しの今、晴れたのだった。

あのときのぼくらは、ボール遊びがしたかったのだ。互いに投げ合ったり蹴り合ったりパスを出し合って、ときにはアタックをレシーブしたりして、遊びたかったんだよね。五大元素を真剣に考えてみたり、「犬!」とか言ってボケてみたり、そういうのがしたかったのが、答えを検索されることで、ボールを取り上げられたような気分になったのだ。

分からないことに対して即答されるのは、場合によっては、つまらないことでもある。分からないことをあーだこーだ遊びながら考えることがおもしろいのに、スパッと「これが正解だから一番正しいです」ってのを出されるわけだから。すぐに正解を出されても、その人がすごいね、偉いねってなるだけなんだよなー。

答えはなにも、分からなくたっていいのだ。それよりも、回り道をしたり、道草を食ったり、走ったり遊んだり、公園に寄ったり、河川敷でぼーっとしてみたり、「そういう」のが楽しいんだ。答えを出す「早さ」を競い合うことに、そこまで意味があるようには思えない。早い者勝ちのゲームが人生の中にたくさんあるとしても、人生そのものは早い者勝ちのゲームじゃないんじゃないかな。


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