自分という樹を剪定するのは、自分である。

*先日、打ち合わせをしていた後輩が「ついつい人に合わせてしまうんですよね」と、打ち合わせがひと段落ついた頃にコーヒーを啜りながら、最近の悩みを吐露していた。ぼくは「人に合わせない人よりよっぽどマシだけど、人に合わせてばかりってのも自分に責任がない人みたいで怖いよな」と、なかば真面目に返してしまった。

「人に合わせる」ということは、なにもわるいことじゃない。合わせることができないと、わがままばかりになってしまうし、自分勝手になってしまうことも事実だ。だし、本当に何から何まで「人に合わせる」ことなく、生きている人なんているのだろうか。納得できるか、もやもやしないかといった判断をしてしまった後悔は別として、本当に「人に合わせる」ことなく生きていくのは、相当むづかしいし、大変な労力が要ることだと思う。

ただ「人に合わせる」ばかりになってしまってもどうだろう、とも、もちろん思うわけさ。少しおおげさに言ってしまえば、いったい誰のための人生なのか、分からなくなってしまう。「人に合わせる」ことばかりをしてきた人は、死ぬ間際にどんなことを思うのだろうか。

この「人に合わせる・合わせない問題」については、「決定権が誰か」が大事なんじゃないかなぁ。つまり、「誰が決めたか?」だ。人に合わせることを「自分で決めた」のなら、それは合わせたらいい。しかし、人に合わせることを「自分で決めない」ことは、文字通り流されているようにも思う。決定権がはっきりしてなかったり、他人に預けてしまっていたら、反省もできやしないし、何かあったとき、その人のせいにしてしまう。

あ、樹に例えたら分かりやすいかもしれない。自分という木を、「自分で剪定する」か「他人に剪定されるか」の違いなんだ。自分という樹を、自分で剪定していくこと。こうしたほうが美しいかな、とか、ここを放っておいたら腐っちゃうぞ、とかね。ただただ「人に合わせる」ことは、自分という樹の剪定を、他人にされているようなものだ。その鋏を、自分が信頼して預けたのなら文句はないだろうし、いいだろうけど、そうじゃないと勝手に、相手の価値観で美しいと思う形で切られてるようなものだもんね。

どんなに不恰好であろうと、小さかろうと大きかろうと、花がつこうとつかなかろうと、自分という一本の樹を、誰が面倒を見るかって話なんだと思うよ。ずーっと死ぬまで面倒を見てくれる人なんていないだろうし、その人の価値観と自分の価値観は違うわけだし。そのためにも、あんたはいったい、どんな樹になりたいんだい?ってのが大事になってきたりもするわけだ。

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