脳内に住むリトル〇〇さん。

*ぼくは昔から「まねする」ことが多かった。し、今でもだいたい誰かのまねごとを繰り返しているように思う。それがオリジナルだと他人から言われることもしばしばあるけれど、自分で振り返ってみると、やっぱりそれは「まねごと」なのだ。自信がないわけでも、謙遜しているわけでもない。だってそもそも考えるときの過程に、ぼくが尊敬している人たちならなんて言うだろう?って、ぼくなりのその人たちの知恵を借りて考えていることがほとんどなんだよね。

仕事でも遊びでもなんでもないことでも、考えるときにやることはまず、自分はどう思う?だ。それについて知っているのか知らないのか、知らないなら調べてみたのか、それとも調べないまま一旦歩いてみるのか、そのなかで何をどう感じて、どう考えたのか。そうしてまず、「じぶんの考え」という小さな芽がひょっこりと顔を出す。そこからそいつをにょきにょきと伸ばしていくこともあるし、土の中の根を張るように深く広く考えたり巡らせていくこともある。

ひとまず「じぶんの考え」が顔を出したら、あとは色んな方向性で、その芽に水をやったり光を浴びさせたり、ときには摘み取ったりもする。「反対側はどうだろう?」とか「向こう岸から見たらどう見える?」とか、きれいごとじゃないか?や、あえて説明しないけれど「ふつうの考えか?」もある。そうした芽の育て方のひとつに「あの人ならなんで言うだろう?」というものがある。

ぼくの尊敬する人なら、なんて考えるだろう?どんなふうに考えて、どんなふうにことばにするだろう?糸井重里、吉本隆明、小林賢太郎、燃え殻さん、幡野広志さん...じぶんの尊敬する人たちを脳内で作り出して、じぶんに意見させたりする。もちろんぼくはその人たちのすべてを知らないが、ただ好きで、ある程度まではこんなふうに考えるんじゃないかなぁといった具合にしていくので「リトル〇〇さん」のようなものだと思う。じぶんの脳内に「リトル糸井重里」や「リトル小林賢太郎」をつくって、それぞれのリトル先生たちと自分で話し合いながら、考えやことばを転がしてゆく。

それもひとつの「まねごと」なんだよね。あの人の考えや思考をまねしながら、じぶんの考えを深めていく、こねていく、というかさ。だからぼくはけっこう、まねごとで生きているように思うのだ。じぶんのちからだけでなにかを作ることは少ない。脳内にいるリトル先生たちに相談しながら、つくっていく。だからまだまだ、へたなまねごとのような文章が多かったりするんだけど。

そういえば、竹原ピストルさんの歌であったんだよなぁ。「あの頃の俺の歌はあの人とあの人とあの人とあの人を足して4で割ったような歌だった」って歌詞。ただその歌詞は「今の俺が誰と誰と誰と誰と誰と....誰とを足していくつで割ったのかは、親友のお前にもわからないと思うぜ」って続くんだ。

さらにそういえば、この前My地蔵と話したときもこんなことを言っていた。「大人になるって、自分の頭の中にリトル〇〇が増えていくこと」だと。あぁ、これも分かるなぁ。ただしっかり意識しないといけないのは、地に足がちゃんとついているか、だね。それらの土台にすべて「自分の考え」がないと、ただのふわふわした借り物の考えになってしまうもの。


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