声を上げるより前に

*今日が展示の最終日なのですが、この空気感の中で、展示をつづける意味ってなんなんだろう、と考えました。展示をしていていいのだろうか、展示をみんなにたっぷり楽しんでもらえるのだろうか、知ったようなことは言えないなかで、それなりに考えたり思ったりもします。情勢がどうというより、それを受けたぼくの心が、展示に来てくださいねと心から言えなくなってしまったから、整理をしたり、折り合いをつけようとしたり、少ないレパートリーの中からできることを探したりしています。

言いにくいことを書きますが、東日本大震災の日に、ぼくはいつも振り返ることがあります。それは「声を上げている人たちが、いちばんかなしいとは限らない」ということです。平等なかなしみなんてないし、かなしみを比べること自体がそもそもまちがっているとは思うけれど、声も出せない人だっているはずです。声をあげようにもかすれかすれで、どうにもならない人だっているはずです。声にならない声を、たくさん持っている人だっているはずです。声を上げたら、視線が向きます。その視線に耐えられない人だっているはずです。だからこそ、「声を上げる」という行為には勇気がいるんだと思います。不謹慎かもしれないけれど「死人に口無し」ということばだってあります。

上げた声がきちんと届くということは、聴いている誰かがいるということです。ざわざわとした空間の中では、上げた声もかき消されてしまいます。ちゃんと声が届くということは、言いたいことがあろうとなかろうと、口をつぐんで聴いている人がいる。聴くときにしゃべっている人なんていませんから、声が届くには聴く必要があるんです。ちゃんと聴いている人がいてはじめて、上げた声は届くんです。

むりに声を上げようとしなくたっていいんです。みんながそれぞれになにか言っているから、私も自分の考えや思いを述べなければ、なんてことはありません。みんながそれをしちゃうと、本当に耳を傾けるべき声がかき消されてしまう。その場にいる、その物事に直面している、そのことについて体験したり、長い時間をかけて考えている人の声を、ぼくは大切にしたい。その声がきちんと届くよう、まずは耳を傾けたい。そこから、自分にできることを考えたりしたい。

その物事に直面していないけれど、なにか力になりたかったり、関心があったり、考えたりしたい人がまずやるべきことは、聴くことです。声を聴くから、動こうと思えます。声を聴くから、考えようと思います。声を上げないことや自分の意見を持っていないことより、自分の大きな声で、周りの雑音で、ほんとうに聴くべき声が聴こえないことのほうが、ぼくはずっと怖いと思う。

動けない自分や、何もわからない自分や、できることの少なさに、こころを責めたりしなくていいんです。ぼくたちには、聴くことができますから。声を聴いてから考えたり動いたり思ったりしても、遅くはないはずです。声を聴いてからどうするかを判断しても、遅くはないはずです。声を上げれる自分でいる前に、声を聴ける自分で在りたいとぼくは思います。


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