うそをつかせたのは、ぼくだった。

*さいきん、うそをつかれたことがあった。いや、ぼくが気付いていないだけのウソもたくさんあるだろうけれど、そのときはたまたま、それが「うそ」だと知っていた。その「うそ」を相手から言われたとき、ぼくがはじめに思ったのは「うそをつかれた」ではなかった。「うそをつかせてしまった」と、そのときのぼくは思った。

うそをつくことが悪いとか、やさしいうそならいいとか、そういう話をしたいわけじゃない。ぼくはそのとき、「うそをつかせちゃったなぁ」と思ったのが本当なのだ。もちろん、うそをついたのは、ぼくじゃなく相手なのも分かっている。うそをついたのは向こうなんだから、べつにお前は関係ないじゃないか、というのも分かる。「うそをつく」という選択をしたのは相手なんだから、あなたがコントロールできることではない、というのも分かる。しかしぼくは、「うそ」というものは、半分はつく側の人が、もう半分はつかれた側の人が生み出しているものじゃないか、と思ったりもする。

うそをつくことに快楽をおぼえているような人間じゃない限り、普通に生きていてうそをつくことなんて、まあないだろうね。うそをつくのには、必ず理由がある。なにかを隠したかったり、おおきく見せたかったり、やさしさだったり、そこにいろんな理由があって「うそをつく」わけだ。

私とあなたの関係性において、うそをつかれるということの裏側は、うそをつかせているということかもしれない。だってそこには、相手にうそをつかせる理由が存在しているわけだからね。それが私とあなたの間でのうそだったとしたら、「うそをつく理由」の片翼はじぶんにもあると言っていいはずだ。

うそをつかれたことを残念に思っているわけでも、怒っているわけでもない。ぼくはそのとき「うそをつかせちゃったのは、ぼくだ」と思ったんだから。あの人にうそを言わせてしまったのは、ぼくが原因だった。ああ、わるいことしたなぁ、って。ごめんなさい、と心の中であやまった。べつにこれは、ぼくがやさしいからそう思うわけでもなんでもない。「うそをつかれた」より先に「うそをつかせた」と思ってしまったのが事実なんだから。そんなことをたらたらと考えている、夏です。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?