ことばはときどき、うそをつく。

*ことばというものは、ときどき「うそ」をつくものだ。しかもやっかいなのは、うそをつこうと思っていなくてもうそをついてしまったり、うそだと知らないうそだったり、うそだとわかっていても見て見ぬ振りをしてしまいたくなるところである。ことばというのは、基本的にうそをつけるのだ。だって、口では何でも言えるし、何を言ったっていいのだから。

対して、うそをつかないのは「身体」だ。いくら口で「おいらは自転車に乗れるもんね!」と言ったところで、自転車に乗せてしまえば、うそかほんとうかすぐにわかる。身体性のあることばは、うそをつかないというか、うそじゃない。だって、身体で経験して、沁みているんだから。頭でこさえた文章やことばは、意図せずともうそをつく場合がある。

教科書で勉強した歴史のことはすぐに忘れてしまっても、たまたま旅行先で訪れた神社の立て札に書かれた歴史をおぼえていたりだとか、地元の人が話してくれたエピソードが妙に忘れられなかったりするのは、そういうことだ。知識や話を、身体でおぼえているからだ。ぼくはこういったものも「身体記憶」の一部だと思っている。

あらゆるものを、身体でおぼえていたいなぁ。知識も経験も、頭でするのではなく身体でしっかりと積み重ねたい。そのためには、部屋の中や机の上ではできないことを、どんどん足を運ぶことで自ら赴いていくしかないのだ。「アイデアの質は、移動距離と比例する」なんてことを誰か偉そうな人が言っていた気がするが、そりゃそうだ。それだけ足を使って、普段訪れないような場所や初めていく場所で、たくさんの情報を身体で味わっているのだから。

「人生は、自分の思い通りにはならないけれど、自分の行動した通りになる」という、さいきん聞いたことばを思い出す。足を運んで、手を動かして、自分がやった通りになるよな、そりゃ。頭を動かすのももちろん大事だけれど、それは「まだ何にもしていない」ことと同義なのだから。


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