3つのほんとうの自分

*ぼくにはどうしてもおもしろいなぁと思うことがあって、それは「人のセックスは見れない」ことなんですよね。ちょっと極北に近い言い方をしましたが、もっとゆるやかに言うと「恋愛しているときのその人」というのは、その相手しか見れないものなんです。同性でも異性でも、どれだけ仲の良い友人だとしても「パートナーとふたりでいるとき」のことは、知りようがありません。「見たことあるよ!」と言っても、それはあくまで「自分と、そのふたりがいるとき」でしょうから、本当の意味では「恋人とふたりでいるとき」のその人を知ることはできないんです。分かりやすく「恋人」という単位にしましたが、これは「家族」でもいいです。

もっと言えば、「ひとりのときのその人」も知りようがないはずです。観測している自分がいる限り「自分といるその人」になりますから。話のタネで「ひとりのときどうしてる?」なんて話すことはあるけど、本当の本当の部分はなかなか人に話せっこない。で、これはどうしてかというと「社会の自分」ってのがいるからですよね。吉本隆明さんの言い方を借りると「個人が考える自分」「家の中にいる自分」「社会的な自分」の3つが存在している。先に書いた「恋人とのその人」はつまり「家の中にいる自分」に当てはまります。

思えば「スキャンダリズム」はこうした構図で出来ている。「社会的な自分」が大きい人ほど「家の中にいる自分」や「個人が考える自分」とのギャップを吊り物にされるというかね。りっぱなことを述べている政治家が、実は風俗に通っていた!みたいなことでしょう。もっと近しいところで言えば「ああ、あいつなら小学校のとき目立たないやつだったんだ」とかね。女房や子供から見た「その人」という視点の切り口が多いのも、その人の普段を知りたいから生まれるものだ。

これは逆も然りで、家族や恋人にはなかなか見せられない顔を、社会でしていたりもするわけです。なんだかそのことが、ぼくは「いいなぁ」というか、そうだよなぁと思うんですよね。誰しもにそんな自分がきちんとあって、どれがほんとうの自分だろう?ではなく、どれもほんとうの自分であると言うこと。どれだけ近しい人ですら、「自分の知らないその人」があるってことは、ぼくにはちょっとロマンチックなようにも思えちゃうんだよなぁ。近づけば近づくほど、遠のくものもあるし、裏側がより見えなくなるみたいなことだったりね。


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