辞世の句

*先日、マイ地蔵からおもしろい連絡が届いた。「烈は辞世の句って考えてたりする?」おお、辞世の句ですか。辞世の句を改めて調べてみると「死を前にしてこの世に書き残された詩的な短文のこと」とある。つまり、死ぬ前に言い残す詩のようなものだろう。遺言とちがうのは、誰に向けて放たれたものでも、目的があるわけでもないことばというところかな。

「考えてません。し、辞世の句を事前に考えておくってのも、なんだかヘンな話ですよね」と返信した。辞世の句、死ぬ直前に言うことを事前に考えることはおもしろいけれど、事前に考えたものをそのまま言うってのも、なんだかヘンテコは気がしたのだ。死ぬ前のぼくが何を思うかなんて、死ぬ前のぼくしか分からない。仮に「我が生涯に一片の悔いなし!」みたいなことを用意していたとしても、死ぬ前には後悔だらけかもしれない。そうだったら、用意していた辞世の句は嘘になってしまう。

そこから辞世の句を調べてみると、ものすごい量の句があった。誰もが知っている歴史上の人物(徳川家康とか木戸孝允とか)から、初めてみる名前の人まで辞世の句が並んでいる。それらを見ながら、ひとつひとつの句に思いを馳せてみる。

まず、この時代の人たちは今のぼくたち以上に「死」の感覚が違うのだろう。明日死ぬかも分からないという感覚が、もっと身近にあった。戦で死ぬことも、暗殺されることも、捕まるかもしれないこともある。そんな時代を生きてきた人たちがこうまで見事な辞世の句を歌うのは、きっと「死」に対する関わり方や概念、美学があるのだ。礼儀、とマイ地蔵は表現していたが、それもしっくりくる。堅い言葉で言うと「死の覚悟」みたいになるんだろうけど、きっともっと身近で「たしなみ」のようなものだったんじゃないかな。語弊があるかもしれないけれど、本当の意味での「ファッション」に近い。

そう思うと、いまのぼくにはまだ薄い意味での「ファッション」の辞世の句しか書けなそうだ。ううむ、辞世の句、かあ。読んでみたいと思うけれど、読もうとして読めるものじゃない気もするなぁ。もしこれからのぼくが書くことばのなかで、そういうものがあったのなら、辞世の句にしてみてもいいかもしれない。どうでしょう、これを読んでいるあなたは、辞世の句、ありますか?


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