言葉と音の仲睦まじきこと。

*「言葉」よりも先に「音」があったわけだ。風が発する音、木々が擦れる音、波の音、夜の静けさ、意味すらも持っていない声、、、さまざまな音があって、そこから、言葉というのは生まれたわけだよね。音より先に言葉はなかったのだから。そのあとに「記号」に近しい伝達のために「文字」というものが、発明されていったことになる。

「音」のほうが、「言葉」よりもずっと先に存在していたのだ。だからだろうか、ぼくは「音」ないしは「音楽」にたいして、尋常ならざる憧れと嫉妬を抱いている。音楽をやっている人がかっこいい、というのもあるんだけれど、ズルい、とすら思う。意味や伝達といった機能を超えたコミュニケーションがそこにはあって、何を言っているか、何を意味しているかなんて二の次にして、そのものを楽しんだり、懐かしんだり、浸ったりできる。

よくミュージシャンの方に「音と詩、どっちを先につくるんですか?」と質問をすると、たいていの人は「どっちもどっち」というか、「両方、生まれます」なんて言う人が多い。それはつまり、ある言葉にセットとなった「音」が、ふっと付いてくるのだろうだ。あるいは、生まれたメロディにあらかじめ備わっていたかのように、「言葉」がバチッとハマるのだそうだ。その感覚は、ほんの少しだけ分かるような気がするのだけれど、ほんの少ししか分からない。それがなんとも、羨ましいのなんの。

「言葉」というのも「音」を含んでいるのだから、言葉を発するだけでも音は生まれる。そりゃあ、メロディにバチっとハマる「言葉」なんてのもありそうだよなぁ。言葉にフィットする「音」もありそうだよなぁ。そういう話を聞くたびに、いいな、と勝手に羨ましがっている。そんなに言うなら、お前も音楽の一つでも始めてみろよって自分でも思うんだけどね。

さいきん書いているエッセイでは、言葉の持つ意味や物語以上に「メロディー」を意識して書くようになった。どんなトーンで、どんなリズムとスピードでそれを描けるか。そのぶん、音読して確認する回数も増えた。ものすごく勝手で私的な意見だけど、音楽に憧れる物書きたちはみーんな、こうしてレジスタンスしているんじゃないかなぁ、なんて思う夕方であります。


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