感覚について考える。

*「感覚」というものを、みな誰しもが持っている。しかし、誰しもが持っているのにも関わらず、そのバランスというか、チューニングというか、何によく反応し、何に鈍いかは人それぞれ違う。どうしてみんな持っているものなのに、それを平等に作らなかったのだろうか、などと神様になったつもりで考えてみる。耳も、手も、足も、顔も目も、人間は誰しもみなほとんど同じ形状をし、ほとんど同じものを有しているというのに、その「違い」で個性とやらをつくろうとしたんだろうか。

「感覚」というのは、論理の対として使われることが多い。論理的には合っていると思っていても、感覚が尾を引くこともある。逆に、論理的には間違っていても、感覚が「飛び込め!」と叫んでいることもある。この「感覚」をどの程度使い、どの程度の重さを置くかも人によって違う。感覚を頼りにしていない人もいるし、逆に感覚に頼りっぱなしという人もいる。もちろん、どちらが良いとか悪いとか、優れているとかの話ではない。

しかし、どれくらいの比重を置いているかは別にして、誰しもがこの感覚とやらを持ち合わせていて、誰しもにそれぞれの感覚があって、それを使っていることは確かのように思う。どれだけ頭でっかちな人間であろうと、きっと感覚的に居心地が悪い場所にはずっといにくい。恋愛においてもそうだ。どれだけメリットがあろうと、感覚的に合わない人と一緒にいることは苦痛だったりする。

ややこしいのは、この「感覚」というのは、年月が経つにつれて変わっていくこともある。好きだったものが嫌いになったり、居心地が悪いと思っていた場所がそうじゃなくなったり、苦手なものが美味しいと感じられたりする。体調や気分によっても「感覚」は影響を受ける。感覚とやらは、なかなかに繊細なものなのだ。

さらにややこしいのは、この「感覚」というのは、正解ばかりを弾き出すわけじゃない。感覚がそう言っていても、実際に違ったりすることがもちろんある。直感は外れるし、違和感にも勘違いがある。必ずしも「感覚」が正解を弾き出すわけじゃない。し、感覚では受け入れられないような事実だってこの世にはたくさんあるのだ。(地球が今、音よりも速い速度で回っているように)

しかし、この「感覚」なしでは生きれないってのも、人間のおもしろさのひとつだよねえ。逆に言えば「感覚」がなくなるってことは、「死」と同義だもの。ぼくたちは生きていく中で、あらゆるものを感じてばかりいる。良いも悪いも、酸いも甘いも、美味いも不味いも。

あの、特にオチとやらはなかったんですけど、感覚で書き進めてみた次第です。もう少し、頭を使うべきだったなぁと、ぼくのカンカクとやらが申しております。


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