ぼくらは割り切れなくて、曖昧だ。

*まいにちをときにテキトーに、ときにマジメに、ときにだらだらと過ごしながら、生きている。ぼくだけじゃなく、みーんな、そうだ。24時間ある1日のなかで、仕事をしたり、遊んだり、友達とおしゃべりしたり、ひとりで物思いにふけったり、恋人といちゃついたり、犬を愛でてみたり、メシを食ったり風呂に浸かったりしながら、まいにちを過ごしていく。過ぎ去るのは早いけれど、時間に興してみるとけっこう長い1日の中で、ぼくたちはいろんなことをやったり、考えたり、思ったり、なにかを生んだりしている。

芸人さんは、きっと今日もどこかでおもしろいことが起きないか、目を見張らせているだろう。詩人は今日も世界や自分をゆったりと見つめていて、音楽家の頭の中では、めしをくっている最中にも作りかけのメロディが流れているかもしれない。絵描きは友人と喋りながら、友人のひょんな一言から絵の景色が思い浮かんでいるかもね。小説家は風呂に入っていたら、とんでもないストーリーを思いついているかもしれないし、そんなこともないかもしれない。

・なにも、仕事をしている時間だけが、仕事をしているわけじゃない。遊んでいる時間だけが、遊んでいるわけじゃない。めしを食っている時間だけが、めしの時間じゃない。家までの帰り道に「今日は何を食べようかな、食べたいかな」と考えているとしたら、その時間も「めしの時間」と言ってもいいんじゃないかなぁ。風呂に入りながら仕事のことを考えたり、仕事中に新しい遊びを思いついたり、旅先で数年会っていない人のことを思い出したり。ぼくたちは、あらゆる時間に、あらゆることをしている。

「過ごした時間」を円グラフに興してみたら、何時から何時は仕事をして、何時にめしをくって、何時は友人と過ごして、なんて切り分けた時間になるのかもしれないけれど、じっさいは、そうじゃないよなぁ。それに、本当にその切り分けた時間通り、その人が動いているとしたら、それはちょっとヘンだよ。ヘンだ、というより、そんなことはきっとできない。集中していたとしても、あらゆることを思ったり考えたり、サボったりしながら、生きているはずだと思う。

ほんとうは、そんなふうに切り分けられないのだ。なにもかも。ぼくたちはもっともっと、グラデーションの世界で生きている。あらゆる色が境界線を犯して滲みながら、交わったり新しい色を生んだり、変化している。そのことを、曖昧なままでいいから分かっていたい。ぼくらはそんなに、きっちりしていないんだ。どうもぼくらは、たいてい割り切れないし、曖昧だ。


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