四十にして惑わず。

*孟子はこう申した。「孔子ならこうした。荘子ならそうした。同志よ、どうした?」

なんてギャグはどうでもいいのですが、孔子さんの「論語」ちゅうやつの有名な一節を思い出したんですよね。

「吾十有五にして学に志し(志学)、三十にして立ち(而立)、四十にして惑わず(不惑)、五十にして天命を知る(知命)。 六十にして耳順い、七十にして心の欲する所に従いて矩を踰えず」とあるそうな。こう見てみると、なかなかすごいことのように聞こえる。けれどまあたしかにそんなもんか、と思うことでもある。まだぼくは二十七歳そこそこなので、志学ぐらいしか体験していないのだけれど。

中でもひときわ有名なのが「不惑」だ。四十にして惑わず、惑うことがなくなる。そんなことあるか?と思っていたけれど、ちゃんと調べてみたらちょっと意味が違うそうですね。本当は「不或」という字で、「惑わず」ではなく、「区切る」という意味を持つそうだ。つまり、孔子さんが言いたいのは「四十にして惑わず」ではなく、「四十にして区切らず」ということになる。

では「区切らず」とはどういうことか。四十にもなると、自分はこんな人間だとか、自分にはもう関係ないことだとか、ある程度自分が固定化されていく。キャラクターとも言っていいし、好き嫌いがハッキリすることだったりするのかな、固定化された自分で生きていけるようになるわけだ。それまで生きてきたのだから。しかし、そうして柵を作って区切るのではなく、そんなのを飛び越えて、もっともっと自由に生きましょうよ、ということになる。

これを「四十」あたりに持ってくるのがすごいなぁ。だって四十まで生きてきたし、生きてこれたんだから、自分を変える必要なんてないと思っちゃう。でもそうではなくて、どんどん変わっていきましょうよ、自分を区切ることなく、外からの影響も受け入れていきましょうよ、というわけだ。その先にやっと、「五十にして天命を知る」があるのがおもしろいよなぁ。若いうちに天命なんて知ろうとしなくていいじゃない、もっと後からわかることよ、ってことなんだろうなぁ。


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