練習されるためにつくられたもの

*美容院で、美容師さんがぼくの髪をちょきちょきしながら、おもしろいことを言っていた。「僕の友達に小さい頃からずっとピアノを習って、海外の音大を出た人がいるんだけど、その人は自分で作曲ができないって言うんだよ。で、これってピアニストの人にけっこう多いんだよね」となにかの話の流れで言われたもんだから「へぇーっ」と驚いた。どうして、ピアノの人は作曲ができないんですか、と聞くと「ピアノはたいてい習うもので、ベートーヴェンとかバッハとか、すでにある曲を弾くことが練習だからじゃないかなぁ」と。ぼくは楽器を弾けないし音楽には疎いので、そういうもんなのかなぁと思った。

で、ここからは毎度おなじみ、ぼくの考えではありますが、練習されるためにつくられるものなんて、ないよなぁと思うわけです。

小学校の頃の国語の教科書には、谷川俊太郎さんの詩が載っていた。他にも誰だっけか、なにかの小説のある部分や、星新一さんのショートショートなんかもあった記憶がある。音楽の教科書には「ハナミズキ」や、ベートーヴェンとかバッハとか有名な曲があった。初心者が勉強する上で、有名な作品を題材に学んでいくわけだけれど、そもそもそれらは「勉強されるために作られた」ものではないはずだ。

自分自身の作品として、たくさんの人に聞いて欲しいとか読んで欲しいとか、そんな思いでつくられたものが、たまたま載っている。この文法を教えるのに適しているだろうとか、このコードは初心者にも分かりやすいかなとか、何かしらの理由があって選ばれているんだろうけど、そのために作られたものじゃないし、そんなものは世の中になさそうだもんなぁ。

いえ、べつにだからなんだって話なんですけど、ベートーヴェンも練習されるために作ったんじゃないんだ!と思ってね。そういうものとして後世に残るのは誇らしいことかもしんないけど、べつにそのために作ったわけじゃない、ということは、憶えておこうと思ったんですよ。ただ、それだけなんですけどねぇ。


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