宇宙は永遠に無限に広がっている?

*「やり方は無数にあるよ」とか「永遠にやってられるね」とか、そういう言葉を聞いたり見たりするたびに、人は「無限」や「永遠」なんていう言葉が好きなんだろうなぁと思う。限りがない、つまり数えることが意味をなさないことや、終わりのない延々と続く時間。そういう表現が好きなものなんだなぁと思うのだけど、「無限」や「永遠」なんてものは、きっと本当は存在しないはずなのだ。

夢のないようなことを言ってしまうけれど、「永遠に生きてられる」「永遠に生み出し続ける」方法や手段が生まれたとしても、50億年後には地球が滅亡することは決まっているわけでね。もっと近くで言ってしまえば、自分がいくら永遠と思っていようと、その「永遠と思っている自分」は、たった100年やそこらで終わりを迎えてしまう。永遠を証明する方法もなければ、永遠を観測するためには、永遠に観測し続けるものが必要というパラドックスめいたことにもなる。

「無限」もそうだ。無限にあるというのも、よくよく考えてみれば怪しい。例えば、言葉の組み合わせなんて無限にあるよと言うけれど、本当のところはそうじゃないでしょう。書く仕事をしていていつも思うけれど、たいていの良い響きの言葉やその組み合わせというのは、すでに誰かが使ってしまっていることがほとんどだ。ぼくはよく考えるのだけど、誰かがすでに書いたものがダメなのだとしたら、人類は新しい言葉の組み合わせを生み出すことは不可能だよな、と思う。

年号とかもそうだもんね。「平成」「令和」とか続いていくけれど、これも漢字の組み合わせが限られている。2文字だとしても、そのうちなくなっちゃうんだよ。「乳房」とか「珍宝」とか使ったとしても、なくなっちゃうんだ。音楽にしたって同じことを思うものね、ドレミがあるんだから、同じフレーズなんて生まれてしまうのは当たり前だと言える。

「無限」や「永遠」なんてものは、実はほんとうは存在し得ない。そのことをよくよく考えたら分かりながら、ぼくたちは「無限」や「永遠」といった、限りのない、終わりのないものにどこか憧れを抱いている。それはきっと「終わりのある生」を持って生まれたものの宿命だとも言えるし、性でもあるのだろう。

この「無限」や「永遠」について、ぼくは美しいとも思うし、その全貌がまだ分かりかねている。いつか枯渇してしまう表現やモノだからこそ、憧れを抱くのは分かるんだけど、その説明だけでは収まりきらない何かがあるようにも思えるんだよなぁ。ま、またあんこを作りながらぼーっとしている時間にでも、考えてみるとします。


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