努力の奴隷をやめてみる。

*ぼくはよく、飲み会や食事での大人数でのおしゃべりのときに、自分が考えたゲームを試してみたり、へんてこな質問をぶつけてみんなで考えてみたりといったことをするんだけど、この前酒場で、若い子から言われたんだよね。「どうしたらそんなにゲームや質問を考えられるようになるんですか?」と。

それに対して「自分が好きだから、空き時間や暇なときにぼーっと考えてるだけだよ」と返した。すると「どれくらい考えたらできるんですか?」とか「参考にしてるものはあるんですか?」とか、質問がどんどん飛んできたわけ。ひとつひとつに返すこともできるんだけど、その質問の意図には「どうやったらできるようになるんですか?」がすべて含まれていたので、ひとまとめにして「遊んでるうちにできるんだよ、ルービックキューブどうやったら出来ますか?って言われてコツはあるけれど、飽きずに遊んでたらそのうちできるみたいなことで」と返した。自分で返しながら、そうそう、そうだよな、と納得しながらね。

ぼくもたまにしがちなんだけど、「どうすればできるか?」の方法を人は聞きがちなんだ。で、それを真似すればできると思っている。もっと解像度を上げて言うならば「どれくらい努力すればできるのか」で「どれくらいの努力」の方法や時間を真似したらできると思っているんだよね。

もちろん、できるかもしれない。ただ、その努力って、自分が好きじゃなかったら苦痛でしょう。苦痛を伴う努力は継続しにくいってのもあるんだけど、努力したって出来るとは限らないんだよなぁ。何よりそれは「努力」というものを天上に置いた考え方でもあっちゃうんだよね。

「いや、遊んでるうちにできたんだよ」は何も天才なんかじゃなくって、「ただ面白いからやめられないだけ」なんだ。人が「努力」だと捉えている時間や労力のゾーンを、無我夢中でやれちゃっているんだよね。そこに「努力の奴隷」が勝負しようとしても、なかなかむづかしい勝負になると思うのよ。

遊んでいくなかで、勝手に育っていく筋肉があるように、そういうふうに物事を覚えることができたり、育っていくのがベストなんだよなぁ。そういう意味では、「本気で面白がってみること」というのが、その子に対する答えではいちばん近いかもしれない。面白がるための努力めいたものは、ちょっとはしてるつもりもあるしね。どちらかというと「飽きないための努力」に近いかもしれないけど。

突出的な技術や才能を持っていたりする人に話を聞くと、こういう「遊んでるうちにできた」というのが多いんだよなぁ。人によっては「すっごく努力したよ」と言う人もいるんだけど、よくよく聞いてみたら「そんなの努力でどうにかなりっこないよ、きっと好きで夢中だったんじゃないの?」ってのがほとんどだし。

嫌いなことを永遠に続けられないんだから、好きになって夢中でやってみることから始まることや、育つ畑はいくらでもあると思う。あ、もしかしたら、そのためにコツに「先に好きになってみる」というのは、あるかもしれないねー。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?