月、かもしれない。

*きのう、夜中に家の周りを散歩をしていて、ひととおりぐるりと歩き回ったので、家の前の段差に腰を下ろし、タバコを吸っていた。目の前にある家の塀からは庭先の樹がひょこんと顔を出していて、その上に電線、また向こう側の家が見えて、空がある。空には半月とも満月とも言えない、おおっぷりな月が出ていた。なんだかその、縦に広がる景色が良くって、ポケットに入れていたスマホを取り出し、縦にしたまま写真を撮った。

撮った写真を見て驚く。夜で灯りが少ないのもあって、ぼやけた具合がなんとも「絵画」みたいだった。たしかに昔の写真は解像度が低くて、一種の絵画みたいに見える。あの感じが、最新のスマホにデータとして保存されていた。

自分で見た景色を自分で撮ったのだから、もちろんその写真に映るものはぜんぶ分かるんだけど、なまじ抽象画のようになっているので面白いのだ。「これ、樹だよな?」「よくみるとここに電線がある」などと、頭の中で絵画からその景色を記憶へと変換していく。そのときに、これは面白いかもしれないと気がついた。

写真だとほとんどの場合、「それ」が何かすぐに分かるものだ。樹なら樹、家なら家、月なら月と映っているものがそのまま保存されるのだから、一目瞭然で「それ」が分かる。しかし、同じ景色を、同じ画角で絵にしてみたら、一旦つまづくんだよね。「これって、樹かな?」「あ、よくみたらここに電線らしきものがあるよ」なんて具合に、確信までは持てないんだけれど、見るものの想像力を駆使して、抽象的に描かれた情報を補完していく。これって、絵の面白さのひとつでもあるよなぁ。

どこまでいっても「樹かもしれない」「電線かもしれない」なのだ。自分が描いているわけでもないし、確信は持てないのだから。そういう「かもしれない」が生まれる余白が、わざわざ見た景色を自分の手でもう一度描いたりする「絵」にはある。もちろん写真にだってあるんだけど、写真は写真で、しっかりと映されていることから見える奥行きや良さがあるものね。


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