けれん味のない祈り

*ぼくはごはんを食べるときにかならず「いただきます」を言うようにしています。誰かと食べるときはもちろんだけど、コンビニで買ったごはんをひとりで食べるときも、「いただきます」と言う。ちょっと恥ずかしいときは小声で言って、手を合わす。「ごちそうさま」はひとりでご飯を食べるとき、思えばあんまり言ってないかもしれません。それでもたぶん、ちゃんとやろうと決めた何年か前から、いただきますを言い忘れたことはないと思います。べつに、「すべての命に感謝です」みたいなことを毎度思っているわけじゃありません。むしろ思っていない時の方が多いんじゃないかな。それでも「いただきます」だけは欠かさないようにしています。これは「念仏を一度でも唱えたら浄土に行けるんだよ」と言った親鸞聖人の一念儀に近い考えです。

部屋でひとり、コンビニで買ったごはんを食べるときにする「いただきます」はね、なんだか自分の人間としての尊厳を保つようにするときがあるんです。「ひとりでさみしく、コンビニ飯を食うけれど、おれは人間として食うぞ」みたいな、尊厳をなんとか保つように手を合わせて、自分の耳にしか聞こえない「いただきます」を言う時がある。ひとりよがりで、誰に放っているわけでもないこの言葉と動作は何かを守るためにやっているようで、ぼくはわりかし好きだったりします。ラーメン屋でひとりの女性がそうしているのを見たときも、あの人は自分の人間としての尊厳を守ろうとしているんじゃないか、と思ったことがあったなぁ。

このことはなんだか、自殺をする前に靴を揃えるようなことに近いと思うんです。最低限のじぶんとしての尊厳を保とうとする行為というかね。ぼくはそういうところに、ちいさなうつくしさを感じる。だから自分がする、とってつけたような「いただきます」がぞんがい好きです。ぼくは聖人君子じゃないから、毎回命に感謝しているわけじゃないし、しているときもあるけれど、割合でいうとたまーにだと思う。そういう意味では、この「いただきます」はエゴイズムなんだけど、ぼくはなんだかそっちのほうが本当な気もちょっとするんだよなぁ。エゴイズムな側面のない祈りというのは、ちょっとけれん味があるというかね。

だからさ、疲れている人ほどおすすめだよ。心がちっちゃくなっていたり、ずーんとしているときほど、とってつけたくらいでいいから「いただきます」と手を合わせてみる。たったこれだけで、じぶんの大切なところまでは侵食されない気がするんです。じぶんを守るのはじぶんしかいないんだから、ほんとうに大事なところまではじぶんで守んなきゃいけないからねー。


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