たねをまく

*きのうは、お米の脱穀でした。手で植えて、手で刈ってを繰り返す田植えも、今年で3年目になる。ちょっとは慣れてきたかな、なんてのは思いつつも、年に一度だから思い出す程度の慣れしかない。慣れというより、記憶だね。思い出しながら、身体が動いている感じ。せんばこくでもみをはずして、唐箕でごみを飛ばしてさ。

なんども、なんども書いていることだけれど、一朝一夕で出来るものなどほとんどないのだと、身につくことなどないのだということを、農業を通してもっと自分に叩き込みたいのだ。今の仕事のサイクルは、1日あれば、1時間あれば制作物ができ、経済が回るような仕組みだけれど、こと人体において、またぼくらの身の回りにおいては、そんなことはないのだということを、せめて身体に覚えこませておこうと思うのである。

「なにかが育っている」という感覚を、忘れずにいたいのだ。ぼくの目に見えぬところで、目に見えていたとしても見えていないようなところで、何かが育っている。何かが育っているのは、かならずタネを蒔いたからだ。タネを蒔いてなきゃ、なんにも育つはずがない。今日食べるための何かを今日植えて収穫して、やっていくなんてのも技術としては必要かもしれないけれど、育てることの本質はどこか、人間に近い気もしています。それはそのまま、育てられることにもつながってくるわけでさ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?