ぎっくり腰といううそ。
*「ぎっくり腰」というのは、思えばヘンテコな名前だ。だって、痛みの擬音って「ズキっ」とか「ちくちく」とかでしょう。「ぎっくり」痛かったことなんて、人生であるだろうか。どちらかといえば「ぎっくり」は、嘘がバレたときの擬音だ。「あなた、実はかくしごとしてるでしょう?」「(ぎっくり)し、してないよ。おいらがやってるのは書く仕事さ」なんてなもんだ。
「ぎっくり腰」という名前は、どうやって付けられたんだろうか。僕も一度だけ、ぎっくり腰になったことはあるんだけど、ほんとうに「ぎっくり」なんだよね。ほんと、いきなり来て、それが起こる前と後じゃ取れる行動が違う。立ち上がって走れたのが、急に立ち上がることもできなくなる。いわば、「嘘に気づいた」ような状態に近い。「おれの腰は、もうやばかったんだ!」って身体が気付いて「うそ」がバレたもんだから、そこからはもう「うそ」が通用しなくなったというか。
似たようなことはけっこうあるみたいだ。「切られたことに気付く」とか「自分の腕がないことを目で見て気づいてショック死する」とかね。ぜんぜん熱くない鉄をおでこに当てられて、火傷するなんてのも逆だけどそうだ。騙し騙しやっていたことを、気付いたことで「うそ」がバレ、本当になってしまう。思えば、人間の「騙す機能」というか、「思い込み」とか「信じる」力は、ものすごく強い作用を生むんだと思う。
神様を信じている人は、目の前に起こったことを「神様のおかげ」だと本気で信じれる。「自分はできる」と信じてやまない人が、飛んだことない高さの跳び箱を飛んでゆく。「プラシーボ効果」なんて名前もついているくらい、ぼくたちが何かを「信じる」、反対側の「騙される」能力は高い。みんな上手に何かに騙されながら、生きているんだなぁと思うとおもしろい。
上手に騙される、自分を上手に騙し込むことができたら、世界はもっとおもしろくなるのかもしれない。真実や本質ばかり求めている人が、どうも幸せそうに見えないのは、そのせいなのかなぁ。
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