下品な人が、自分の下品さに気付いていることは上品である

*年齢、性別、お金がどうこう身なりどうこうじゃなく、品のある人というのは、やっぱり素敵だなぁと思います。品のあることを示す言葉として「上品」と「下品」というのがたびたび使われますが、じゃあ実際にどういうのが「上品」で、どういうのが「下品」なんだろう?と、あんまり真剣に考えてこなかったなぁと思って。自分の行動について疑うことはあっても、どういうのがとはなかったもんでね。

このことを考える上で、田辺聖子さんの言葉を思い出したので、ちょっと引用させてもらいたいのです。

「下品な人が下品な服装、行動をとるのは、これは正しい選択であって下品ではない。しかし下品な人が、身にそぐわない上品なものをつけているのは下品である。また、上品な人が、その上品さを自分で知っているのは下品である。反対に、下品な人が、自分の下品さに気付いていることは上品である」

この言葉に出会ったときは、なかなかな衝撃を受けたなぁ。

「下品な人が下品な服装、行動をとるのは、正しい選択であって下品ではない。しかし下品な人が、身にそぐわない上品なものをつけているのは下品である」
いわばこの一文は、身の丈ということだ。身の丈にあったことをしましょうよ、と。下品な人が下品に振る舞うのは、自分が下品だと気付いているからだ。だからこそ、下品な人が自分の下品に気付いているということは、上品でいてうつくしい。なるほどなぁ。反対に上品な人が、その上品さを知っているのは下品である、と。

まとめて言い換えるのであれば「自分を疑う人かどうか」だと思うんです。自分のことを正しいと思っている人は、自分を疑うことはありませんよ。反対に、自分を疑っている人は、正しいと思う。仮に間違っていたとしても、それは上品だよなぁ。

つまり、下品とか上品とかは、身なりや振る舞いによって決められるようなことではない。その人が自分を疑い、自分と対話しているかどうかだと。たしかに、いかにも高級そうな服装でウン百万もする時計をつけてる人でも、下品だなと思う人っているもんね。反対に、ボロボロの服装をしたおじいちゃんが、カップ酒におでんの出汁と七味を入れながら飲んでいる姿を見たことがあるんだけど、あれは最高にキュートで、上品だった。

親鸞聖人の「悪人正機」にも近い考え方で、ぼくはこの言葉に魅了されたのでした。たしかに、自分を上品だと思っているのはよくないなぁ。自分なんて情けなくて、つまらない人間だとどこかで思っている人は、けっこう上品だなと思ったりする。河島英五の「時代おくれ」なんてまさに、そうだよねー。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?