取り柄がないと思うこと。

*甲子園を未だに直視できないぼくだけれど、それでもやっぱり、甲子園がテレビで流れていたり、ニュースが流れてきたりすると目で追ってしまう。ぼくが高校球児だった、というのもあるだろうけど、甲子園を好きな人たちはなにも、高校球児だった人たちだけじゃない。家族や知人に高校球児がいない人でも、甲子園という魅力に引っ張られて見ている人はゴマンといるだろう。そこまでさせる甲子園の魅力はやっぱり、いくら考えてみても「一生懸命」というところにある気がする。

では、彼らはなぜああも一生懸命やるのか。なれるのか、ではなく、やるのか。それは一生懸命じゃないと勝てないと知っているからだ。

「甲子園には魔物が棲んでいる」と言われるくらい、これまで数々のどんでん返しや番狂わせが起こってきた。最終回で5点差以上をひっくり返した試合もあれば、逆に延長十七回まで続いた試合だってある。そういう歴史を彼らは知っているし、何より今までの試合や、甲子園という実際の舞台に立っているからこそ、思うのだ(と思う。ぼくは甲子園に行ったことないからね)。「一生懸命」じゃないと、勝てない、と。

仮に、プロ級のスラッガーとエースと野手陣と…で構成されているチームがあったとしても、きっとそのチームは一生懸命だと思うよ。全力疾走で一塁ベースを通り過ぎるだろう。チェンジのたびに全力疾走で、仲間のもとへ走っていくだろう。

それはどこかで、技術や実力にそこまで差がないと彼らは分かっているかもしれない。「打てるものなら打ってみろ!」と思いながら投げるだろうけど、それでも打たれる時には打たれることを、どこかで分かっている。だから相手と差をつけるには、相手より「一生懸命」になるしかない。この技術というのは、社会だと「サービス」とかに置き換えてみても良い。一生懸命以外に、勝ち目はない!と自分の実力や取り柄をちゃんと理解していれば(天才じゃないと分かっていれば、でもいい)、一生懸命になりやすい。そうじゃないと、勝てないのだから。

甲子園はきっと、そういうものの塊なんだろうなぁ。それに、一生懸命というのは人を魅了させるんだ。やっぱり、泥だらけの選手ってのは、人の目を惹きつけるもんね。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?