ひとつの場所にとどまる恐怖。

*暮らしの中でも、遊びや仕事の中でも、人間関係の中でもそうなのだけど、ぼくは基本的に、どこか1つのコミュニティに身を置く、ことを避けてきた。意識的にも避けてきたし、きっと本能的にも避けてきたんだろうと思う。何か1つの決まった場所で、自分が固定されることが、どうしても苦手なのだ。ラクだし、嬉しいことでもあるんだけど、ぼくの場合はそれ以上に苦手や「気持ち悪さ」が勝ってしまう。そのため、意識的にも無意識的にも、あらゆる場所やコミュニティに顔を出すようにしてきた自負がある。

ぼくは今、神戸という街で暮らしているが、その街の中でも界隈やコミュニティがある。そこの人たちと飲んだり遊んだりしていたときに、この前ふと、怖いなと思ったのだ。「ここ」での常識は、きっと「世界」での常識とはかけ離れている。それは良い意味のときもあるだろうし、悪い意味のときもある。そのときは、どちらかといえば後者のほうだった。正直、けっこう怖いものを感じた。

そこにいる人たちにとって、その常識が「当たり前」なのだ。だって、そういう空気や文化があるのだから。しかし、一歩外に出れば、それは違う。一般的な社会や「世間」において、その「当たり前」は通用しない出来事だった。改めて、コミュニティを1つに絞ることの恐怖を感じる。仮に1つに絞ったとしても、どこかしら「別の社会」にアクセスできる術は持っておいたほうがいい。

「インターネット」も、アクセスをするための1つの手段だ。だから、SNSはやっておいたほうがいい、というのはぼくの持論でもある。特に、ツイッター。ただ、忘れてはいけないことは、インターネットも、ひとつの「コミュニティ」であり「地域」だったりもする。

コミュニティや自分の属するところを複数個持っておく。それは、自分を固定しないために、だ。比較材料や素材、何かを考えるために必要なデータはいくつかあるに越したことはない。し、複数個あることで、それぞれの特性も分かるだろう。価値観や常識や態度や見られ方や人間が「固定」されてしまうことを、ぼくはとても恐ろしいことのように感じてしまう。

あとはやっぱり、常に「あたらしい人」と出会うことだろうねー。それは「あたらしい自分」と出会うことに、ちょっと似ていたりもするんだもの。


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