また会う人と、また会わない人。

*よく漫画の中で、面接やらなんやらに向かう途中、困っている人がいて…なんてシーンがある。その困っている人を助けたら、面接には間に合わない。さあ、それを見過ごすか否か。主人公はだいたいその見知らぬ困った人を助けて、案の定面接に遅れてしまう。しかし、実はその面接をするところのお偉いさんがさっき助けた人で…ま、使い古されたシーンなんだろうけど。

このとき、主人公は見知らぬ困った人を、面接するところのお偉いさんだと知って助けてはいないわけだ。いわば「また会う人」として接してはいない。「もう会わないかもしれない人」として接して、困りごとを解決しようとする。

思えば人は、「また会う人」と「また会わない人」に分けられる。家族とかクラスメイトとかは、会社の同僚や上司は「また会う人」だ。「また会う人」はことば通り、また会うことを前提にお付き合いをしている。好きであろうが嫌いであろうが、仲良しだろうが仲悪しだろうが、だ。

「また会う人」には、また会うのだから、ひどいことをやりにくい。ひどいことが起こってしまった場合には、その関係が壊れてしまって「また会わない人」になるか、そのつぐないがされて関係を「また会う人」に修復されることもある。

じゃあ「また会わぬ人」には、ひどいことをしていいのか?と言われれば、そうでもない。し、そうでもないって皆さんも答えるでしょう?しかし、そういうひどいことがしやすいのが「また会わぬ人」の特徴でもある。店員さんに横柄な態度をとったり、電話先で文句をつけたりしやすいのは、「また会わぬ人」だからだ。少なからず、ぼくにもそういう性質はあると思う。

きれいごとのようだけれど、できるだけ「また会う人」として、接したいと思うのだ。それは「その人がいつ私に情をかけてくれるか分からない」みたいな損得勘定や、「情けは人の為ならず」みたいなことじゃあなくってね。ある種のテクニックとして、「また会う人」として接すれば、そんなにひどいことはできないし、言えない。そういう見えない地べたのような信頼関係が、「また会う人」というだけで、築けるように思う。また会う人として、人と接する。もしかするとキリストさんは、それを「隣人」と名付けたのかもしれないね。


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