「型」から入ってみること。

*なにかどこかで読んだ話で、日本の特徴は「型」というものが存在していることだ、というのを見た記憶がある。格闘技しかり、日本舞踊しかり、歌舞伎や落語といったものもしかり、「型」というものがある。まずはこの「型」をおぼえるところから始めるというのが、日本の特徴だといった文章だった気がする。うろおぼえで、ごめんなちゃいだけど。

「型」から入っても意味がない、という人もいるだろうが、ぼくはそうとは思わない。むしろ、型から入るのは大事だろうし、型があるからこそ、みんな平等にはじめやすいことも事実だ。型がなかったら、最初っからみんなそれぞれの形を見つけ出さなくてはいけない。それってなかなか大変なことでしょう。正拳突きってこうするんですよ、この落語はこういう話でね、酒を飲む演技はこうするんだよといった型があるからこそ、まずは型に則ることではじめることが容易になる。

もちろん、大事なのは「型」じゃなくて「気持ち」や「思い」のほうで、それがあれば自然と「型」になる、というのも分かる。それはきっと本質だし、もちろんそのほうがいいのだ。でも、その「型」を踏襲することで、その気持ちや思いをトレースできるってのもなかなか優れたもんだとも思うわけよ。

例えば「いただきます」が、「食べ物や命にこころから感謝しなさい」と教えられていたら、ぼくたちは日常的にそれをできるだろうか?もちろんできる人もいるのだろうけど、とてもじゃないが、ダメ人間なぼくには到底できるとは思わない。正直な話、命や食べ物にこころから感謝しながらご飯を食べた経験の方がすくないだろうし。でも「いただきます」が「手を合わせる」という型だから、どんな人でも「いただきます」ができるし、ここまで普及していったわけだよね。

何かに祈ることを「こころから信じることです」と言われて、それをできる人がどれくらいいるだろう?「祈る」ことを「手を合わせる」という型をつくったから、「祈りやすく」なったのもあるだろうし、「いただきます」と「祈る」っておなじことをしてるんだなー、とか、考えたりもするわけでしょう?

そう思うと、いろんな「型」というのはおもしろいもんだ。「バンザイ」で両手を上げることとか、「バイバイ」で手を振ることとか、踊りの型や演技の型、フィギュアやヨガにも「型」がある。どうしてこんな「型」になったのか、「型」に込められた思いはなんなのか、そんなことを考えてみるのも面白いかも知れない。でもそれも「型」をせずに考えるよりは、「型」をしながら考えた方が身に沁みるだろうしねー。

ああ。思えば「挨拶」というのも、「型」だねー。「ありがとう」とか「ごめん」とか「おはよう」や「ごちそうさま」も、りっぱな型である。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?