思い出は美しく持て

*友人に連れて行ってもらった店のバーテンダーが「俺も昔、好きな人と別れてストーカーまがいのことしてましたよ」と言っていた。ビジネス書に書いているようなことしか喋らない人で、二度とこの店に来ることはないだろうなと思いながらも、「まあ、わかる」と思った。ぼくもそうだ。振られた彼女や、疎遠になった人にちょっとしたストーカーまがいのことをしちゃったことはある。バレてないかもしれないし、バレてるかもしれないけど、自分から離れた相手の一挙手一投足が気になって、SNSなんてのを随時チェックしちゃったりさ。

ぼくの場合はかもしれないけれど、それはきっと「理解したいから」だ。その人を、自分から離れた理由を、離れた先で見ているものや考えていることを理解したい。ただその考えは「理解できたならもっと大事にできた」という考えに帰結する。しかし、そんなこたあないのだ。相手のことを100%理解できることはまずないし、理解できたからといって、その人のことを大事にできるわけじゃない。

ほんとうに目を向けるべきは「わたしが、あなたを大事にしたかった」ってところだよね。それを上手い具合に出せなかったら、それこそストーカーになってしまったり、憎しみへと変わってしまったり、いま隣にいる人を大事にできなかったり、それが原因で悲劇を生んだりもする。その感情の処理の仕方を、きちんと学ぶというか、どうにかこうにか自分の中で留めてどうにか処理できるのがいちばんだ。それがたとえ後悔のまま残ったとしても「あのときできなかったから」は、今それをやる理由になりえるのだから。

わたしは、あなたをもっと大事にしたかった。異性であろうが同性であろうが、恋愛であろうが友人であろうが、ぼくはぼくを通り過ぎて行った人たちにそう思う。今ならもっと大事にできるとは言えない。でも、もっと大事にしたかった。大事にされたかったし、大事にしたかったんだ。じゃあそれは誰のために?って問いもたつんだけど、それは不毛だからやめておこう。人ってさ、大事なものを大事にしたい生き物なんだよ。

大槻ケンヂさんが、映画『ボクたちは大人になれなかった』の感想で書いていたことばが好きだった。「今がクズでも、思い出は美しく持て」。なんて美しい、誇りあることばなんだと思った。思い出は美しく持て、ぼくには「一寸の虫にも五分の魂」と同じ意味に聞こえたよ。


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