じょうずにだまされる

*「信じる」ということは、「じょうずに騙される」ことなんじゃないか。

小説、映画、音楽、アニメ、お笑いに建物やアクセサリー、もしかすると、宗教だってそうかもしれない。つくられたものを見ているとき、ぼくたちはどこか無意識で「信じる」ことをおこなっている。架空の、他人の物語や作品であるのにかかわらず感情移入したり、驚いてみたり、感動したりする。つくりものだとわかっているのに、だ。だとすると、ぼくたちは「信じる」というよりも、「じょうずに騙されている」と言えまいか。

ディズニーランドだってそうだよ。現実にあんな世界がないことを知りながら、乗り物やキャラクターたちに自ら騙されにいっている。だから、あれだけ楽しめるわけだ。小説だって、映画だって、音楽だって、つくりものだと分かりながらぼくたちは楽しんだり励まされたり、ときには涙したりする。その経験は、ノンフィクションよりもフィクション、つまりつくられたもののほうが、圧倒的に多いんじゃないか。

ややこしいことを言えば、なにかを本当に信じているということは、信じていないことなのかもしれない。神様はいないと分かりながら手を合わせたり、こんなこと現実に起こりっこないと分かりながら笑っちゃう。そんなとき、ぼくたちはじょうずに騙されている。なにかを楽しめたりする人は、じょうずに騙されることができる人なんじゃないかなー。ここ、もうすこしじっくり考える必要がありそうだ。


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