分からないは、信じれるかも

*ぼくらは小学校や中学校の頃に、授業で「この問題、分かる人ー?」って手を上げさせられていたね。で、分かる人の中でも自信のある人がばばばっと手を挙げていくわけだ。手を挙げている人たちがみんな正解しているわけでもないし、手を挙げていない人たちが分かっていないわけでもない。ほんとうにわからない人もいれば、分かっているけど手を挙げていない人だっているだろう。あ、ぼかぁ、自信たっぷりに手を挙げたもののよく間違えたりとか、自信がないときは後の方で手を挙げたりするズル賢いやつでした。

あれもさ、よくよく考えてみればどうなんだろうね。分かる人に分かる問題を皆んなの前で解かせることに意味はあるのだろうか?いや、もちろんあるんだとは思うんだけどさ。でも授業のことやクラスのことを考えるのであれば「分からない人」にこそ、手を挙げさせるべきだ。でも、ぼくらは「分からない人ー?」と聞かれた時になかなか手を挙げづらい。分からないことが恥ずかしいと思っていたりするし、何より「分かる人が手を挙げる」という環境にずっと慣れてきたからだ。

分からないことを、分からないと言いにくくなっている。学校の問題じゃ正解は確かにあるから答え合わせもできるんだけど、社会に出たらさ、答えがないことがほとんどだよ。そのなかで「分からないことを、分からないと言いにくい」というのは、けっこう全体どうなんだ、とも思うわけよ。分かったふりや知ったかぶりばかりが蔓延っていく。これは全体の話でもあるし、ぼく自身の話でもある。すーぐ分かったようなクチをしちゃうもの。

でもさ、やっぱり、答えのないことがほとんどなんだよ。その中で「これが答えだ!」って断定することはむずかしい。もちろん、むずかしいからこそ、そう言えるのはカッコイイってのもある。あるけど、でもやっぱり断定できることなんて少ないと思うのだ。日々アップデートされていく情報の中でもそうだし、ぼくらの心模様や考えは思いのほか複雑で、これ!ってものが常に存在しているわけじゃない。

そう思うと、だよ。「分からないことを分からないと言える人」ってのは、なかなか信用が置ける人じゃないかい?はたから見たら「おれも分かんないから聞いてんだよ」って思うかもしんないけど、それを言えるのは発信者の誠実さでしょう。「これが答えです!」のほうが聞こえもいいし、求められているのかもしれない中で「わかりません」って言えるのはさ、勇気がいることだ。

ぼくはこんなことをさ、常にみんなで揉み合ってたいんだよなぁ。わからないことを、わからないねーなんて言いながら、ありとあらゆる方向から切り込んでみたり、ボールを投げてみたりしたい。それでもやっぱり、わかんないねー。なんて言いつつ、でも、こういうことってあるよね、とそこから生まれるものたちを見てみたい。「これが正解だ!」は、べつにいいよ。このご時世、それっぽい正解はネットにいっぱい転がってるし。

分からないことを分からないままにしておかず、分からないと言ってみる。あれ、おれも自分が何言ってるか、わかんなくなってきた?


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