エラいと錯覚してしまう話。

*むかし、友人と酒場で「エラそうな話をするゲーム」というのを、やってみたことがあった。いったい、どんな話をしたら、エラそうに聞こえるのか。なんとなく思いつきでやってみたものの、このゲームはすぐに終わった。というのも、「政治の話」もしくは「自慢話」がいちばんエラそうだよな、ってところに、すぐに行き着いてしまったわけだ。進んでみたものの、みんな行き止まりをどこかで知っていたのである。

「今の時代は~」「なんちゃら党は~」「この法律を決めたのが~」なんて、それっぽく言ってしまえば、おおきくエラそうに見える。好きな音楽とか、芸術とか、明日の晩メシのことをしゃべるよりも、政治だとか国家だとか、そういうことをしゃべっているほうが、なんだかエラそうに聞こえるのだ。そして、いざやってみると、自分がエラくなったようにも感じる。これがまた、ふしぎなもんだよなぁ。

「セージの話」と「おれが今から食うラーメンの話」では、どうしたって前者の方が、エライことのように思えるのだ。もしかしたら、ぼくがその手の話に疎いだけかもしれないし、その話をしないようにしましょうよ、と言ってるわけでもない。ただ「エラそうに見える」ってだけだ。日本を、世界を、宇宙を憂いたり考えたりしてるぜってことなんだろうかな。自分だけじゃなく、そーんな広くて大きいもののことまで考えてるぜおいらは、ってのを、どこかで感じるからだろうか。

そういう仕事の人だったら、それはあくまで「仕事の話」なんだけど、たいていの人はそうじゃない。しゃべっちゃダメ、と言ってるわけでもないよ。ただ、単純に「今日の晩メシ」を話すように、話せることが一番だと思う。だけれど、そうさせない魔力みたいなものもある。

ひとつは「主語」が大きくなることで、錯覚してしまうんだろうな。よく素人の精神分析は危険だと言うけれど、それに近いかもしれない。自分が行ったことのない国々のことについて、意気揚々と話している感じだもん。なんなんだろうね、これ。普通に喋れることが、一番なんだけどね。

書きにくいことだけれど、みんな「自分が含まれた集合体」のことに、そこまで興味がないというか、優先順位が低いんじゃないかなぁ。自分のことで精一杯というのもあるし、だからこそどう興味を持ってもらうか、というのは大事だと思うんだけど。いや、もしかすると「自分が含まれている」意識が薄いのかもしれない。事実、ぼくもそのひとりだし。うーん、このへんの話は、書きにくいし言いにくい。ま、また機会があれば、整理してみることにする。


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