かき氷を食べてない夏。

*そういえば、今年の夏はまだ一度も「かき氷」を食べていないことに気付いた。いや、べつに毎年意識して「夏だからかき氷を食べよう!」とかやってるわけじゃないんだけどね。むしろ意識的に食べることはほぼない。海や縁日に遊びに行った際にかき氷屋さんがあって気分が乗ったなら、食べるくらいだ。ひとりでわざわざかき氷を食べに出かけるなんてことは、きっとぼくの今までの人生で一度もない。一度もないってのも、なかなか不憫なもんだなと思いながら、おれはまだこの夏、かき氷を食べていないことに気付く。

よくよく考えてみれば、「氷」というものは食べるために作られたものではないのだ。なにかを「冷やす」、温度を保つためにつくられたものであって、ばりばりと音を立てて食べるために作られたものではない。飲み物やお魚を冷やすために使っていた「氷」を、どっかのだれかが「べつに食べてもウマいんじゃないか?」と気付いたのだろう。そいつはきっと、飲み物に入っている氷をばりばりと食べるやつだったんだろうなぁ。

で、「そのままだと食べにくいから、なんか氷を細かくしてさ、食べやすくしたらいいんでないかい?」とこれまた別のやつがばりばり氷を食いながら口を挟むわけだ。するとこれまた別のやつが「それいいね。でもそのままだと味がないから、なんか氷にかけるのはどうだろう?」なんて言い出して、出来てきたんだと思うよ。最初ははちみつとか、あんみつとかいろいろかけてたのが「シロップ」というものが出来上がり、そこから白玉とかあんことか乗っけちゃったりなんかしてさ。

思えば「ことば」というものもそうだ。最初は「伝達用」として機能していたものが、現代では「表現」というジャンルでことばが使われている。もっと昔だと「和歌」なんてものもそうだね。だれかに、なにかを伝えるためのものが、表現として別の意味合いを持つようになった。もちろん今でも8割は伝達としてことばを使うけれど、残りの2割の表現という舞台でも、ことばは注目される。特にぼくなんかは、その舞台を仕事にしている人間なわけだし。

いや、まあ、だからどうってわけでもないんですけどね。むりくり「かき氷」と「ことば」を繋げちゃったけど、べつに言いたいことがあるわけでもない。そういえば、おれはまだこの夏かき氷を食べていないなあ、とね。夏が終わるまでにかき氷を、ひとりでしっぽり食べに行くのもいいなぁ。「ひとりでかき氷を食べるツアー」なんてのを、ひとりでやっちゃおうかなぁ。


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