「こころ」と「ことば」。

*「こころ」について、誰しも一度は考えたことがあるだろう。「こころ」とはいったいなんなのか、何のことで、どんな動きをして、どこにあるのか。「こころ」がないものはいるのか。こころがあるのに「こころない」対応をしてしまうときもあるし、身体とおんなじように、疲れることもある。「こころ」というものの不確かさと抽象さは、生きるうえでついて回るテーマのひとつだ。

いつだったか忘れたけれど、ちょっとした思いつきで実験をしてみたことがあった。二、三十人くらいの場で「こころはどこにあると思いますか?あると思う場所を、せーので指差してください」と言うと、たいていの人が胸に手を当てた。しかし、中には頭を指差す人や、お腹を指す人、頭からつま先まで全身にあると思います、なんて人だっていた。みんな等しく持っているもの(少なくとも、その場では)なのに、それぞれ場所がちがうというのは、おもしろいことだと思った。

・「ことば」というのは、どこから生まれるのだろう。そんなことを考えたとき、やはり「こころ」から生まれるのではないか、と思う。「こころ」で何かを受け取って、感じて、受け止めて、それが「ことば」として芽を出す。

けれど「ことば」を扱わないものたちに「こころ」がないか、といわれると、そうでもないような気もする。木も、海も、犬も猫も、ぼくが見ている限り「こころ」というやつはありそうだ。

「こころ」があるのに、「ことば」をもたないものたちは、なんだかちょっといいよなぁ。うるさくなくて、ややこしくなくて、ただ「動き」だけがある。そのことはなんだか、ことばを持っているぼくたちからすると、羨ましくさえ思える。

亡くなった人や生き物にさえ、「こころ」を感じることもあるかもしれない。なんだか、ヘンテコで、おもしろいよなぁ、こころって。

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