「書き手」である前に。

*ぼくはたまたま「書き手」という職業についていますが、ぼくは「書き手」である前に、だれかの「聴き手」であり、「読み手」であり、「受け手」です。こうして毎日書いてばかりいると、書き手としてのじぶんみたいなものがにょきにょきっと伸びてくるのですが、書き手としてのじぶんに、日光や水といった養分を与えてるのは、「受け手」であるじぶんなんですな。「受け手」であるじぶんが、「書き手」のじぶんを育てている。

これはもちろん、逆も然りだよ。「書き手」であるじぶんが、「受け手」のじぶんを育てていることでもある。じっさいになにかにチャレンジしてみて初めて分かることがたくさんあるように、アクションをする側を経験すると、どこに着目すればいいか、どこが大変で、どこに力を入れているのか抜いているのかが分かる。いわば、ものごとの「鑑賞力」を高めるようなことだ。ぼくは「書き手」であるからこそ、「受け手」のじぶんも少しずつ成長していっている。と、思いたい。

じょうずな「書き手」である前に、じょうずな「受け手」でいたいものだ。いや、むしろ本来そうなのだ。そのことを忘れずに、ぼくはいっぱしの書き手であり、受け手でありたいと思う。「書き手(送り手)」と「受け手」を行き来しながら、楽しんだりつくれたりするのが理想だよねぇ。「読み手」は「書き手」からすれば、向こう岸だ。「書き手」は「読み手」からすれば、向こう岸だ。その岸を小舟で行ったり来たりしながら、景色を楽しんだりしたい。向こう岸に自由に行き来できて、さらには楽しめる人になるってのが、理想だよなぁ。

インプット、アウトプットと受け取ってもいいよ。ただ、それは情報じゃない。向こう岸には、ぼんやりとしか見えないかもしれないが、きちんと人がいるんだぜ。

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