割れんばかりの生きる力。

*少し前に、自分が勝手に教え子のように思っている人と話して(とくになにも教えたおぼえはないのだけれどね)、こう、お日様を浴びるような気持ちになったこと。19歳という年齢で、大学に通い、好きなことも学び、それにくっついてくるめんどうなことも学ばされ、出会った誰かを好きになり、自分の輪の中の人付き合いがあったりと、そんな話を聴いていると、なんだか日向ぼっこをしているような気分になったのだ。

彼女は、19歳の彼女をいまめいっぱいに生きている。文化的な話や、哲学的だったりむずかしいような話とか夢とか好きなことの話はまだできなくっても、彼女が今生きているその瞬間のことを、はつらつと話してくれる。果実がどれもきれいな色をしているのは、美味しいよと食べてくれる人たちをおびき寄せるためでもあるのだろうけど、それ以上にこう、生きている力というか、「見て!」というエネルギーをどこかで感じる。まさに、そんなふうに思った。果実が育つように、生きている。

そのきらめきを、みずみずしさを、ういういしさを、前に進もうとしているその生きる力を、忘れてはいまいか。と自分に問いかけた。仕事をして、誰かと話をして、書いて、食って寝て、それがいつしか生きるための繰り返しになってしまっていないか、と。学校に行って、友達としゃべって、恋人と手を繋いで、めんどうな宿題をして、好きなこともちょっと学んで、バイトもして、めしくって、寝る。彼女にとってそれは目の前のことであり、生きることなんだ、と思った。だからあんなに、果実が割れんばかりに美味しさと豊潤さを主張するような、エネルギーがあったのだと。

ぼくという果実は、ちょっとしぼんじゃいないか。お日様をたっぷり浴びて、水をめいっぱいあげているかい。もっと、こう、生きるエネルギーに満ち溢れているかい、おれよ。


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