朝の勤行

*きのうから、奈良県吉野町へ来ています。満開の桜や紅葉で有名な、吉野山ね。ちょうど今日は修験道の本山である、吉野山金峯山寺の朝のお勤めにも参加してみました。なんだかんだお寺や教会の関係者の方のところへ宿泊させてもらう機会が多い人生だから、こういう朝のお勤めみたいなのは慣れてたりするもんです。ま、修験道のは初めてだったけど。

朝6時に旅館を出て、半ごろから本堂でお勤めが始まる。十五名にも満たない人数の人たちがみな正座をして、お坊さんたちが出てくるのを待っている。ひとりふたりさんにん…とお坊さんが現れ、お経を唱え始める。あ、修験道の変わっているところは法螺貝を吹くってのもあるね。それが約30分。正座を続けていることによる足の痛みと戦いながら、なんとか朝のお勤めを終える。お勤め中、お坊さんの唱えるお経や左右前後にいる他の参加者を見つつ、怒られるかもしれないなぁと思いながら考え事をしていた。

なぜこの人たちは、朝のお勤めをするのか。決まりごとだからとか、そうして育ったからとか、たくさん理由はあるだろうけどいちばんしっくり来た理由があった。「しなきゃ気が済まない」もっといえば「したら気持ちがいいから」じゃないのかなぁ。

ぼくは無宗教の家庭で育ったのでそういう習慣はなかったけれど、もしあったのだとしたら、朝起きて歯を磨く程度にやるはずだ。シャワーを浴びたり、朝必ず牛乳を飲むでもいい。そうしないと気持ちがわるくて、そうすると気分良く過ごせる。たぶん、そういうものなんじゃないか、お勤めとか、そういうのって。

何に祈っているかとか、神様がどうかとか、そんなものは一旦ほっといていいのかもしれない。誰が何に何のために祈ってるかより、もっと生活的なというかね、私的なところに目を向けて考えてみると、宗教だったり習慣だったりはおもしろくなる。

「よおし、今からお前に神様を見せてやるから、目を閉じて5つ数えろ。…おう、いいぞ」と開けたら目の前には鏡があった…みたいな話、昔誰かとしなかったかなぁ。そういうのは、あながち考える上で大事になってくるのかもしれない。


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