嘘をつかせているかもしれないということ

*ぼくにも「何事も本音で話して包み隠さず言いたいことを言い合えばいいじゃないか!」みたいなコミュニケーションにハマっている時期があった。(何度も書いているけど)嘘とか建前とかじゃなくって、本当のところを教えてくれよ、といわば「嘘を見抜く」ような技術を磨いて、相手の本心かどうかを見分ける技術を身につけて、肝はどこにあるんだとかっさばいていく卸し方まで勉強して、肝を引きずり出すようなコミュニケーションをしていたと思う。今思えば、とんでもないやり方だ。向こうからしたら、たまったもんじゃなかったろう。ごめんなさい。

「人はどうして嘘をつくのか」という、命題がある。もちろん、うそをつかずに生きていくのが一番いいのはみんな分かっている上で、それでもやっぱりどこかで嘘をつく。ぼく自身振り返ってみて、子どもの頃に親に対してよく嘘をついていた。ただ、冷静に振り返ってみると、そりゃあ嘘をつかざるをえないよな、という追求の仕方をされていた気もするのだ。

弁解の余地もないくらいに本当のところを追求されれば、誰だって嘘をつくように思う。嘘をつくいちばんの理由ってのは「自分が不利になる」といった損得勘定よりも「怒られたくない」という、どこかうしろめいた気持ちの方が大きいと、自分を振り返ってみて思うのだ。損得勘定では嘘をつかない方が後々は損をしないことを分かっているのに、それでも嘘をつく場合ってのは「怒られたくない」がベースにあるんじゃないだろうか。

そう考えてみると、嘘をつくというよりも、追求の仕方によっては「嘘をつかせている」ことも、往往にしてあると思うんだよね。追求しようとすれば、人は嘘をつくと言ってしまってもいいくらいに。でもそれってねえ、果たしてどんなもんかってことですよ。じゃあお前は嘘をついたことないのか?と言われれば、それはもう嘘になっちゃう。嘘を許容できる余裕を持つには、というより、本音ってのはなかなか分かり合えないもんだぜと、心の用意をしておいたほうがいいんじゃないか、と思いまして。ああ、だらだらと書いてしまったけど、まあ、考えの軌跡ってことで、ゆるしておちょんまげ。


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