すくう、こぼれおちる

*今回の原画展のタイトルは「すくう」と「こぼれおちる」にしました。
なにぶん、「て」に関する絵本ですから、手の周りのことばにしたかったのもあります。
漢字で書けば「掬う」「零れ落ちる」となるわけですが、漢字の持つイメージだけに囚われてほしくなかったので、
ひらがなで書きました。もっとおおきな「すくう」と「こぼれおちる」のイメージを、広げたかったんです。

なにかをすくおうとするとき、ぼくたちは両手を使います。
片手ですくうこともできないことはないけど、ちゃんとすくおうと思えば、両の手を使って、
なにかを大切に抱きかかえるような形になるはずです。
砂漠でようやくたどり着いたオアシスの水を飲むとき、きっと両手で飲むでしょう。
もし自分に子どもが生まれたら、そっとやさしく両手で抱きかかえようとするでしょう。
そもそも「とる」のでも「つかむ」のでもなく「すくう」なのですから、
対象が弱々しい、ちょっと力を加えれば変形してしまいそうなものなのです。

水なんかわかりやすいけれど、すくうと、両手の隙間からこぼれおちていきます。
するするとこぼれていって、次第に手のひらにちょこっとだけ残ります。
そもそも両手を使っているのですから、こぼれおちるものたちをどうしようもできません。
こぼれおちるものをどうにかしようと両手を開いたら、すくっているものぜんぶがこぼれます。
こぼれおちるものをただ、見ているだけしか、見守ることしかできません。

ぼくはこのことを、とってもさみしいことのように思っていました。
ぜんぶすくうことができたなら、と傲慢に聞こえるようなことを本気で思ったこともありますし、今でも思います。
けれどやっぱり、そんなことはできたためしがありません。
どれだけそおっと大切にすくおうとしても、大切にしたかったそれが、隙間や端々からちょっとはこぼれおちていくのです。

すくいたかったもの、大切にしたかった人、けれどこぼれおちてしまったものが、人それぞれあるんじゃないかなぁ。

こんなことを書いているぼくも、誰かの手からこぼれおちたものなのかもしれない。
こぼれおちたから、こうして今ここに辿り着いているんだと思うと、
それはそれで縁のある出来事だよなぁ。
こぼれおちた先で、待っている人や出会えたものがちゃんとあるんだから。


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