少しずつ他人じゃなくなっていく。

*きのう、どうして接客のあるお店とないお店があるのか、ということを書いた。同じ「モノ」を売るお店なのに、書店に接客はない。薬屋にも接客はない。しかし、服屋さんには接客がある。それは他者からの評価があるモノだということや、店頭に置いてあるものだけが全てじゃないことが理由なのではないか、なんてことをウダウダ書いたものだ。

そのなかで、服屋さんの接客が苦手、という人は一定数いる。かくいうぼくも、どちらかといえば苦手だ。しかし相手はその道のプロで、服に関して、さらにはその店に並ぶ服に関しては自分よりも詳しいはずである。しかしどうして苦手だと思ってしまうのだろうか?

それはひとえに「他人」だからじゃないかな。人見知りなどの理由で、見知らぬ他人から話しかけられるのが苦手という人もいるだろう。しかし、もっと奥深くに「知らない他人からモノを勧められる」ことの違和感が、接客が苦手な人の中にはあるんじゃないだろうか。

私の好物も、好きな映画も、カバンに入っている読みかけの本も、最近どんなことで涙したかも知らない誰かに、これから私が着る服を勧められるのはどうしたって違和感がある。私のことを少しも知らない他人に、私が身につけるモノを判断されるのだから。もちろん、服屋さんはそういうものだと言われたらそうなんだけど、あくまで事実の話です。

笑ったらえくぼができることや、本当は根暗なこと、痩せたり太ったり体型が変わりやすいこと、知らない他人より、ほんの少しでも私のことを知ってくれている他人から人は何かを買いたいものだ。見知らぬ誰かからもらったプレゼントより、仲のいい人からもらう贈り物の方が嬉しいのは、私のことを知ってくれていて、だからこそ何を贈ろうか迷ってくれた時間が、想像しやすいからだ。

営業でも一緒だろうね。その人のことを何も知らない状態で、買ってくださいとなにかを勧めるのは難しい。その人がどんな生活をしていて、何に困っていて、どんなデザインが好きで、何をして生きているのか。少しずつ少しずつ知っていきながら、それならこれはどうですか?と勧められると買いやすい。それは「知識」なんて額面どおりのことじゃなくって、その人と少しずつ「他人じゃなくなっていく」時間の積み重ねこそが、大事だなと思うんです。


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