心模様は何色も

*その昔、わしは「歪な愛の形」というイベントをやっていたんですな。ぼくの一回り年上のミュージシャン、6つ上の路上詩人ことMy地蔵、そして当時21歳くらいだった何者でもないワタクシ。その3人が毎回テーマを持ち寄って、来てくれた人たちといっしょにあれやこれや話すという、いわゆるトークイベント的なことを、毎月やっていたんです。たぶん、20回くらいはやったんじゃないかなぁ。5年ほど前のことだからあんまり憶えていないけれど、当事者なりにいろんなことを感じたイベントだったと思う。

当時、その中で話題に上がっていたのが「沖縄の基地問題」でした。政治的な話をすることは少なかったし、したとしても政治的な面は分からないので話しません。そもそも、ぼくは政治の話はしないと決めていますから。ただ、違った角度からそういうことを考える、というのはこのイベントでよくやっていたことでした。トークを聴きに来てくれた人の中でも「賛成」とか「反対」とか、もちろん「どっちでもない」「しょうじきどうだっていい」って人もいましたし。

でね、じっさいに参加者の人でこんな人がいたんです。「基地問題について、私の考えでは反対なんですけど、私の姉が米兵の人の奥さんなんです。子供もいて。そこに反対すると、私は姉も、姉の家族にも反対しているような気持ちになってしまうんです。だから、分かりません」
ああ、そうだよなと思った。人生の中でさ、ほんとうにはっきり白黒つけれることなんて、そうそうない。二分化された意見の中にいたとしても、きっとその内訳が「100対0」で成り立っている人なんて、いないんじゃないか。もっと言えばさ、100対0なんてなくたっていいんじゃないか。

なにかを決めたりしないといけない場は、人生の中で必ずあります。左に行くか、右に行くか、といった具合に。いろんな意見や心模様が入り混じっていようと、どちらに舵を切るか決めないといけない瞬間はある。それでもやっぱり、全員が、あらゆる場面で、いろんな考えや思いが入り混じる心模様を白や黒といった一色で表現する必要はないと思うのです。いろんな思いや気持ちがあっていい。それでも、決めることはすばらしい。そんな内訳の心模様を、もっとカラフルなままにできたら、反対側の岸にいる人にもやさしくなれるんじゃないかなぁ。若かりしぼくの幻想かもしれないけれど、ぼくはこういうことを、おおまじめに考えていたい。


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