好きな人の好きじゃないところ

*「好き」というものの魔力に、ぼくは何度も触れてきたけれど、それでもやっぱり書き尽くせない思いと考えがある。「好き」ってなんだ、「好きの効力」ってなんだ、「好き」は魔法だ、説明できる「好き」と、ことばじゃ語れない「好き」、恋愛の「好き」、友達の「好き」、食べ物の「好き」,、「好きじゃない」と「嫌い」ってどうちがうのか…好きについて要素を挙げてみただけでも、ここに書ききれないほどある。

ぼくはよく「好きな人」のつくっているものは、たいてい好きになる。好きな友人がつくった音楽は、それはもう好きだ。好きな先輩がつくるお芝居は、もちろん毎回好きだ。好きな人の描く絵は、きっとこれからも好きだ。好きな人がつくってくれた料理は、おいしい。そのとき、じつは作品そのものよりも、「その人を好き」ということ自体が、ぼくが作品を味わうところに、大いに影響しているように思う。

ただもちろん、その「好き」の影響をできるだけ受けないように、まっさらにして見ようと努める。ま、それも焼け石に水みたいなもんだけどね。しかしまあ、そう努めようとはするわけです。しかしまあ、最近はそれすらもいいかなぁと思ってきた。好きにたっぷり影響されたうえで、好きに見たらいいんじゃないかなぁ。

たとえば好きな人がつくったものが、イマイチだったとして、ぼくはどうしたいのだろう。それを当人に伝えるだろうか?「うーん、ぼくはきみのこと好きだけど、これはイマイチだね」なんて言って、なにがどうなるのだろう?その先に、誰かがよろこんだりするだろうか?少なくともそれを言われた友人はよろこばないだろうし、言うぼくもよろこばないだろうな。それならまだ「ここ、こんな感じでもおもしろいかもね!」なんて、好きたっぷりに話し合う方がいい。褒めあいながらアイデアを提案してみたり、こんなのもいいね、なんて話し合う方がよっぽどいい時間になるんじゃないか。

好きな人の好きじゃないところを見て、「それ好きじゃないな」って伝えて、いったいどうなるというのだろう。そんな当たり前のことに気がついたのだ。ぼくは好きな人たちと、たっぷり褒めあって支え合って生きていきたいし、好きな人たちに恥じないようなものを作っていきたい。いい意味で、期待もたくさん裏切りたい。そういう関係性と心持ちで、じゅうぶんじゃなーい?と、好きについて考えながら思ったのでした。


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