恥ずかしさの足跡

*きゅうに、求めてもいないのに、何年も前に書いた自分の文章が目の前にあらわれた。びっくりしつつ、ヤダなぁと思いながらも目を通す。どうにかこうにか読み終わり、やっぱりヤダなぁと思う。今でもへただけど、今以上に文章はへただし、なんかかっこつけた言い回しをしているし、リズムもちぐはぐだし、やけにひらがなも多い。恥ずかしさで、穴があったら入ってぬくぬくしていたいよ。おれ、よくこんなので文章を書く仕事やってたなぁ。

「成長するにつれて、はじめて書いた原稿を読み返すと、きっと消したくなるほど恥ずかしい。それでも、はじめて書いたときの達成感やくやしさに下手さ、当時の思いは悩んだ時に力になってくれたりもします。はじめての拙い自分が、今の自分を応援してくれる。はじめの一歩、おめでとう」
今年、ぼくといっしょに編集をしていた大学生の子がはじめての原稿を書き上げたとき、そういえばこんなことを言っていたのを思い出した。この一文ですらぼくは恥ずかしいけれど、そのとおりだ。

のちに自分が見返して「恥ずかしい」と思えるほどのなにかを、形として残せていることはすばらしいことだ。記憶といった曖昧で形のないものではなく、ちゃんと何かしらの形となって、消せない形で残ってしまっていること。自分の恥ずかしさや青さの足跡を、残せているということ。それを恥ずかしいと思える今の自分は、まちがいなくその足跡の延長にいるんだものね。恥ずかしかろうがなんだろうが、やっぱり、やるやつは、つよい。おれも恥ずかしがらず、もっと形にのこしていかないとなー。


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