小賢しさはバレている。

*先日やった「音と灯と」というイベントの合間に、友人であるハンドパン奏者のSHUくんと、ろうそく作家のいりえさん、そして会場のオーナーと僕とで「小賢しさ」について話していた。どうしてこんな話になったか憶えていないけれど、それぞれ「自分の中にある小賢しさ」をちょっとは把握していて、かつ、それぞれで付き合いもあるもんだから「れつくんはこういう小賢しさがあるよね」なんて言い合っていたのだけれど、この話がなかなか面白かった。

「小賢しい」ということばは、たいていちょっと悪い意味で使われる。字の通り、ちょっと賢いのだ。「こりゃ、よく考えてるなぁ」といった賢さでも、てんで何もしないわけでもなく、ちょっと考えてやっている。つまり、「小賢しさはたいていバレている」のだ。だって本当に賢いなら、その賢さに周りが気付かないことだってあると思うよ。それでも「小賢しいなぁ」って思うのだから、やっぱり観ている人や聴いている人にバレているんだ。

それが、ちょっといやらしいというか、わざとっぽく見えちゃうんだろうねー。「わざわざ」じゃなく「わざと」が見えるというか。その「小賢しさ」がいいなぁと思えることもあるんだけど、たいていは「それ、ちょっと小賢しい感じだね」ということになる。

あ。小賢しさってのは、小数点以下の数字に近いかもしれない。「5点」を目指そうとしているところに「0,1」を載せようとしている感じ。それだったら、まんま「1点」取っちゃえばいいじゃなーい。答えはわかりませんけど、ここまで書いたのだから部分点はあるでしょ?って感じに近い。いわば、その部分が浮いているのだ。飲食店とかで「564円」なんて数字を見たら、ややこしいなぁって思うのと似ている。それなら最初から税込で「600円」にするとか「550円+税」とかにしてくれよ、と思う感じ。

「小賢しさ」がややこしいのは、いちおう、プラス点だからかもしれない。ただ、表面的にはプラスであっても、もっと広い視野で見るとマイナスになっていることもある。自分もついつい小賢しくなっちゃうもんだから、文章を推敲してるときなんて、小賢しさを抜く作業に近いものなぁ。料理でいう、アク抜き、みたいな。

小賢しさの手数で、0,1の集積で1点を取れるんだとしたら、それはりっぱな「賢さ」だと思うよ。でも、ちょっとでもよく見られようと、余計にプラスしちゃう、あの「小賢しさ」。これには気をつけていきたいねー。「小賢しいことを堂々とやる」って方法だってあるんだし。


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