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喫煙席に座る彼女は、いつも煙草を吸わない。

*前々から気になっていた女性がいた。好みのタイプというわけでも、変わっているわけでもない。分煙がなされている喫茶店で、扉で仕切られた喫煙席にぼくも女性も座っていたのだけれど、その女性がタバコを吸うところを見たことがないのだ。しかも、今日に限った話ではない。2日に1回は訪れている喫茶店で、何度も喫煙席で見かけているのだけど、女性がタバコを吸っているところを見たことがない。その証拠に、灰皿はいつも綺麗なままだ。

タバコを吸わない人なら禁煙席に座るだろう。席が空いていないとかの理由で、渋々、喫煙席に座っているわけでもなさそうだ。しかし、女性はタバコを吸わない。なのに、喫煙席に座って、コーヒーを飲みながらいつもひとりで過ごしている。タバコの匂いが好きだから?とか色々考えてみたものの、確証はない。なぞなぞみたいだなと思いつつ、ぼくはいつもその喫茶店で仕事をしている。

ある日、たまたま喫煙席がぼくと女性の二人だけのタイミングがあった。埃を被った勇気を引っ張り出して、2つ隣のテーブルに座るその女性に話しかける。

「あの、すみません、何度かここでお見かけしてるんですけど」
「ああ、いつもパソコンを開いて何かしてるわねえ、あなた」
「タバコ、お吸いにならないんですよね」
「ええ、私、タバコは苦手で」
「なのにどうして、いつもわざわざ喫煙席に座っているんですか?」
「ああ」と、女性は何か思い出したかのように相槌を打つ。
「主人がねえ、タバコをよく吸う人だったんですよ」女性は懐かしむような顔で言った。その表情の穏やかさに、一瞬、うっとりしてしまう。

ゆっくり「ああ」と声が出る。気の利いた言葉を探すが見つからない。ほとんどの場合、口よりも耳の方が役に立つ。言葉が見つからないまま、ぼくは開いていたパソコンを閉じて、隣のテーブルに移動する。

それから、女性は昔話を聞かせてくれた。亡くなられたご主人がよくタバコを吸う人だったこと。タバコの匂いが嫌いな彼女は、いつも文句を言っていたこと。文句を言うことがなくなってからは、あの匂いが懐かしくなって、たまに喫茶店に来てはタバコを吸わないのに、こうして喫煙席に座ること。銘柄は「ピース」を吸っていたこと。

「あれって、どんな味なの?」と聞かれたので、「ちょっと甘くて濃い、ぼくみたいな若造にはまだ似合わない味です」と答えると「あの人甘いものは嫌いだったのにねえ」と言って笑った。

結局30分ほど話し込んで、なぜか一緒に喫茶店を出た。「ちょっとだけいいですか」と彼女に告げて、すぐそこのコンビニで買い物を済ませる。よかったら、と「ピース」を渡した。すると彼女は「あら、いいわよ。私は吸わないし、あの人ももう吸えないもの。せっかく買ってもらって悪いけど、それはあなたが吸いなさい」と突き返されてしまった。余計なことをしたかな、と後悔しそうになったけれど、別れ際に「そのタバコが似合う男になれるといいねえ」と笑ってくれたので、少し救われた気がした。



ある日、いつもの喫茶店に彼女がやってきた。軽く会釈をする。ちょうどぼくは席を立つところで、テーブルに広げたパソコンと資料をカバンにしまっていた。ふと思いついて、カバンからいつもと違うタバコを取り出して火を付ける。一口だけ吸って、火を消さないまま灰皿に置いてった。煙はゆらめきながら、空を目指して漂っている。


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