一枚の絵からさみしさについて

*ふらっと入った喫茶店の壁に、一枚の大きな水彩画が飾ってあった。横1メートル、縦80センチほどの大きな絵だ。たぶん、エーゲ海のサントリーニ島をモデルにした絵で、海と建物と木々の鮮やかな色が、朝から気持ちいい気分にしてくれた。誰の絵かもしらないし、そこまで有名な作家じゃないかもしれないが、今のぼくにとっていい絵だなぁと思った。

そのとき、思ったのだ。さみしさってたぶん、こういうことだ。この絵がある日、売れてしまったり店主が飽きてしまったりして、飾るのをやめたとする。壁が、ただの壁へと戻る。「あれ、ここの絵どうしたの?」と気付くお客さんもいるだろうし、気付かずにいつも通り過ごすお客さんもいるだろう。ぼくはたぶん次に来たときにこの絵がなくなっていても、たぶん気付かずにコーヒーを飲んでいるんじゃないかな。飾るのをやめてから新しくきたお客さんは、そもそもそこに絵があったことを知らずに、その喫茶店で時間を過ごすだろう。

さみしさって、こういうことだと思ったのだ。飾られていた絵がいつのまにか、なくなっている感じ。

「あぁ、あの絵飾るのをやめたんだ」と気付いてさみしくなる人もいるだろう。「べつにいつも見ていたわけじゃないけど、そういえばあそこに絵があったよね」と言う人もいれば、「あそこの壁、なんかあったような気が...」と思い出せない人もいるだろう。気付かずにコーヒーを飲む人もいれば、そもそもそこに絵があったことに気付いてない人もいるはずだ。新しくきたお客さんは絵があったことなんて知るよしもない。もしかしたら「昔はあそこに水彩画を飾ってたんだよ」と父親が子どもに昔話をしながら、モーニングを食べているかもしれない。しかしそのどれもが、絵がなくなったからといって、その人たちの人生がおおきく変わることはない。絵がなくなっても喫茶店はあるし、お客さんも店員さんも変わらず時間を過ごしている。かなしむ人もそうじゃない人も等しく、そこでの時間は続く。

その絵がなくなったということはつまり、状態としては「その絵が飾られる前に戻った」ただそれだけのことだ。ただそれだけのことなのに、なぜかぽかんと穴が空いたような気持ちになる。さみしさとはつまり、この絵のことで、つまりそういうことなんじゃないか。

たまに思い出されたり、思い出されなかったり、またはその絵と別の場所で出会ったり、その喫茶店の風景を描いた絵の中にその絵があって、風景の中の絵として知ることがあるかもしれない。すでに亡くなった人の本や物語を読んだり聴いたりしたときに「そういう人がいたんだなぁ」と思うように、会えないその人に想いを寄せる人もいるかもしれない。しかし、寄せられている本人やそのモノは、寄せられていることを知りようもない。

さみしさって、そういうことだよなぁと思ったのだ。喫茶店に飾られた一枚の絵から、ぼくはさみしさについて思っている。ぼくが考えたのではなく、この絵が考えさせてくれたようなもので、いい絵だよなぁと思った。いや、もちろん、その絵は今もなおあるし、なんならおれは今出会ったばかりなんだけどね。

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