みんな「持っている」。

*小学生の頃、よく母親に言われていたことばがあった。それが「あんたは持ってるで。持ってるから、ここぞというときは、あんたに回ってくるからな。どんな結果でも良いけど、準備だけはしときや」だった。いま思えば、右も左も分かっていない、「持ってる」ということが、何を持っていて、持っていたらどうなのかも分かっていない小学生に、よく母親は言い聞かせていたよなぁと思うんだけど。ことばが持つ意味よりも、どこか「まじない」に近かったように思う。

小学生の頃のぼくは、実際に「持っていた」気がする。野球の試合で、必ずと言っていいほど、試合を決定づける場面で回ってくる打者はぼくだった記憶がある。もちろん、その場面で毎回ヒットを打っていたわけじゃない。ただ「持っている」ことに関しては、思い返してみても自他共に認めるものだったと思う。それは中学、高校と上がるにつれて、自分に自信がなくなってきて、だんだん「持っている」の効力は薄れていくんだけど。

ただ「持っているよなぁ」と自分では思うのだ。あの頃のように頻繁に、その場面で必ず、というわけではないけれど、人生の分岐点というほど大きなものじゃないけれど、自分の中の分岐点では必ず、自分がいる。

あれ?よく考えたら、それはみんなそうなんじゃないか。自分の人生の分岐点には必ず自分がいる。そこでどんな決断をしようと、ヒットを打てようが打てまいが、逃げようが立ち向かおうが、その打席に立っているのは「自分」なのだ。フォアボールでも三振でも、代打を送られたとしても、そこに立っていたのは紛れも無い「自分」だ。そう思えば、みんな「持っている」んだよなぁ。自分の人生において、みんな、自分は「持っている」。

余談のように付け加えるが、たった二十八年間生きてきて分かったことがある。それは「自分は運がいい」と思っている人は、運がいいのだ。なぜなら、運がいいと思っているのだから、自分にとって「運がいい」ことを見つけるのに長けている。思い込みだろ、なんて言うかもしれないが、思い込みでもなんでも、運が良いに越したことはないじゃない。


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