手を染めたのに足を洗う

*『なにか悪いことをしはじめるときは「手を染める」って言うだろう?でも、その悪いことをやめるときは「足を洗う」って言うよな。悪いことをして染めたのは手なんだから、本当に洗わなきゃいけないのは、足じゃなくて手なんじゃないか!」...と、この前、展示に来てくれた先輩とこんなことを話していた。お説ごもっともである。手を染めたなら、その手を洗わなきゃ意味がない。足を洗っても、なーんの意味がないじゃないか。

これに対してぼくは「手って、いわゆる斥候じゃないですけど、なにか最初に触れる部分だからかもしれないですよね。で、二足歩行だから足は最後まで残る部分じゃないですか。目の前に沼かなんかがあったとして、深さを測ったりどろどろ具合を確かめるのに手を使うけど、入ったら、最後に出るのは足みたいなことなんですかねー」なんて、ちょっくらまじめに返してしまってたんだけど。

人間って、おもしろいよなー。だって、「へそで茶を沸かす」こともできて、「他人の目を盗む」こともできて、「目からうろこ」は落ちるわ、「ほっぺたも落ちる」し、「頭は切れる」し、「顔から火は出る」し、「首を長くする」こともできて、「胸は膨らむ」と思ったら「胸は張り裂けたり」もするし、「腹は立ったり」「黒くなったり」するし…機能的どころか、ものすごーくヘンテコな生き物だぜ、人間って。

そんな人間が持つ「手」に関する絵本の展示は、神戸三宮にて27日まで。手というものも、ヒジョーにおもしろいもんです。手を焼いたり、手塩にかけたり、染めたり抜いたり貸したりもできる。石川啄木が「ぢっと手を見る」と詠んだのも、そうした手のふしぎさをどこかで感じていたからなんじゃないかなぁ。手のふしぎさってのは、考えれば考えるほどおもしろいものなんですよー。

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