好きは深さじゃない

*「好きなもの」がある。きっと、誰しも好きなものがある。「好きなものなんてありません」って人は。なんだかんだたぶんいないんじゃないかなぁ。正しくいえば「好きなものが分かりません」だったら、まぁ、分かる。好きなものがなく生きていけるってことはそうないのではないか。ちいさかろうがおおきかろうが、ある程度の「好き」を積み重ねたり散りばめたりしながら人は生きているもんだ。

「好き」の話をすると「この程度で好きって言っていいのか…」とかがたくさん出てくるような時代になっちゃったよなぁ。知識も、経験も、費やした時間もまだまだ少ない自分には「それ」が好きだとはまだ言えない…みたいなこと。逆に言えば、知識も経験も時間もこれだけ費やしたのだから「それ」を好きだと言っていいだろう..と多くの人が判断しているということだ。でもさ、やっぱり思うけれど「好きかどうか」の判断に他者は必要ないよ。知識や経験や時間が少なくたって、好きなものは好きでいい。もちろん、そういう要素が増えていけばより好きになっていくことはあるけど、ないからといって好きじゃない、わけじゃない。でしょう?

この前もさ、あったよ。「本が好きだから本屋さんやってるんですか?」って聞くと「うーん、わたし、ほんとうに本が好きなのかな?」って返された。「でもそれは、その疑問は、好きの入り口付近にある疑問ですよね。好きなものを考える過程で一度は必ず通る道、というか。その疑問を通っている時点でけっこう好きなんですよ、きっと」なんてぼくも返しちゃった。けど、その通りだと思うよ。「どのくらい好きなんだろう?」とか「どうして好きなんだろう?」とか考えるのは、やっぱり「それ」が好きだという初期症状に近いものがある。

このときに「人に比べて本はよく読むほうか…」とかさ、そういう他者比較は「好き」に入るのは、やっぱり気持ち悪い。「あの人も好きだと言っていたから、君のことが好きです!」なんて言って告白するかい?それに、そんなこと思うかい?好きをもっと薄めるというかさ、浅めるというかさ、ひらたーいものにしていくんだよ。好きは深さでもあるけれど、目の前に広がる漠然とした景色でもあるよー。


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