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大正時代のモガモボたちはどんな恋愛をしていたのか?大正恋愛マニュアル・恋愛テクニック

こんにちは。
近現代の歴史について解説している女学生VTuberの春日陽です。
あなたは、大正時代の流行の先端を行くモガやモボたちがどんな恋愛をしていたかご存じですか?
短い時代ながらも、歴史上多くのインパクトを残した時代でもある「大正時代」。
そんな大正時代には、モダンガールやモダンボーイといった新しいファッションや考え方を身に着けた若者たちが登場しました。
従来の古い考えを捨て去った彼らは、賛否両論ありながらも独自のスタイルを貫き、明治時代当時はタブー視されていた恋愛も楽しんでいたのです。

ということで今回は、大正時代のモガやモボがどのような恋愛をしていたのか?について解説していきます。

https://youtu.be/9nsGUlc_02U


大正時代の恋愛観

まずは大正時代の一般的な恋愛観から紹介していきます。
大正時代は「自由恋愛が花開いた時代」と表現されることが多いように、明治時代に比べて自由恋愛が盛んになった時代でした。

しかし、まだ明治時代から根付いている家制度に縛られることが多く、恋愛への批判も少なからず存在していました。
そのため、当時の人々は旧来の制度や考え方を「古くさい」と認識しながらもそれに従わなければいけなかった側面もあったようです。
特に上流階級にとって恋愛はご法度で、まだ明治時代の頃のような「親が決めた相手とお見合いで結婚する」という結婚観も残っていました。
当時の人々の中には、恋愛をするのはふしだらなことだという価値観を持つ人もまだ多かったのです。

しかし、大正時代にはそのような考え方を持たない人も多く現れはじめました。
大正時代の恋愛観に最も大きな影響を与えたと言われているのが、女性の社会進出です。
女性はかつては自分一人で生きる力を持たず、結婚して家族に尽くして生きるのが理想とされました。
親に言われるがままに結婚し、その後も家に縛られる…それがかつての結婚でした。
つまり当時の人々の中には、恋愛や結婚に対して本人の意志が全く尊重されない人も数多く存在したのです。

しかし大正時代になって経済が発展したことで、自分の権利や意思を主張し、自立を目指す女性たちが登場しました。
大正時代の中期になると、職業に従事して自身の力で生活をする「職業婦人も現れ始めます。

エレベーターガール 昭和9年(画面右)

また、大正時代は恋愛観の変化に伴って結婚観にも変化が現れ始めました。
大正時代でもお見合い結婚が一般的でしたが、結婚するかどうかは本人の意志によって決めるという形をとる家庭も増えてきたそうです。
また「婦人公論」や「主婦之友」などの主婦向け雑誌でも「愛のない結婚ほど悲惨なものはありません」といった本人同士の愛情を重要視する表現が登場するようになりました。

大正11年 「近代の恋愛観」  改造社

また、大正時代には恋愛の自由を説いた「近代の恋愛観」という本がベストセラーになったことなどから、人々の恋愛への考え方の変化が見受けられます。
大正時代はまさにお見合い結婚から恋愛結婚へ移り変わる過渡期だったのかもしれません。

自由恋愛を楽しんだモガ・モボたち

では次に、大正時代に自由恋愛を楽しんだ人たちについて紹介していきます。
大正時代当時に積極的に恋愛をしていた人たちといえば、モガやモボと呼ばれる人たちです。
モガやモボはそれぞれ「モダンガール」「モダンボーイ」の略称で、大正時代の流行の最先端を行く若者たちでした。

モガ

モガやモボは斬新な洋装に身を包み、キネマ・ダンス・スポーツを好むなど従来とは違った解放的な生き方を謳歌する人々のことです。
彼らは、自分の意志を持って行動する新しい考え方で生きる人々でもありました。
こうした彼らのファッションや行動は時にひんしゅくや批判を買うこともありましたが、彼ら独自のスタイルは大正時代の流行語となるほど革新的な生き方だったのも事実です。
では、そんな彼らはどこでどんな恋愛をしていたのでしょうか?

まずはモガやモボの恋愛スタイルについて見ていきましょう。
常に革新的な生き方を求めていた彼らは、まさに自由恋愛に憧れ謳歌した人々でもありました。
彼らの基本的な恋愛スタイルの特徴は真剣な恋愛というよりも享楽的な恋愛であることです。
モガやモボは、一人の人と深く愛を育むよりも遊びのような恋を楽しんでいたと言われています。
彼らは様々な人と交流することを楽しんでいたんですね。
モガやモボにとって、恋愛とは結婚の前段階ではなく「社交」の一環としての行為だったのかもしれません。
また、昭和初期には職業婦人の仕事として、銀ブラをする男性と腕を組んで歩く「ステッキ・ガール」という仕事をするモガも登場しました。

銀座の通行人

恋愛という行為が一般的ではなかった時代からすると考えられない光景ですよね。
もしかしたら、大正時代にも似たような光景が見られたかもしれません。

そんなモガやモボの出会いの場は、主に銀座だったと言われています。
銀座はモガやモボの間で「銀ブラ」という言葉が流行するほど、彼らの間で人気のスポットでした。
自分と同じようなモガやモボが集まる場所なので、出会いも求めやすかったのではないでしょうか。

銀座の喫茶店の様子

また、ダンスホールや映画館、カフェー、洋食屋などはモガやモボにとっての出会いの場でありデートスポットでもありました。
多くのモガやモボが集まる場所こそが、彼らにとっての出会いの場所だったということですね。
その場で出会った見知らぬ異性と束の間のランデブーを楽しむ、それがモガやモボの恋愛スタイルなのです。
また、喫茶店で文芸や芸術をテーマに恋愛論を講じて交流を楽しんでいたモガやモボもいたといいます。
男女が並んで歩くことや気兼ねなく会話をすることが当たり前ではなかった当時としては、とても斬新な光景だったのではないでしょうか。

また、カフェーでは給仕として働く女給と客であるインテリ男性が恋に落ちる…ということも少なくなかったそうです。
当時のカフェーの様子や女給さんとの恋愛は、多くの文学作品にも残されていますね。
当時のカフェーは、まさに自由恋愛が発展した場と言えるでしょう。

「カフェー・タイガー」の店内の様子 国立国会図書館デジタルコレクションより

また、映画館も当時のナンパスポットであり男女の出会いの場だったそうです。
当時の映画館では、暗闇に乗じて隣の異性の手を握るなどのナンパ行為がよく行われてたのだとか…現代の映画館では考えられないですね。
しかしこれらの行為は問題視されるようになり、後に男女別席となりました。

大正9年(1920)頃 帝国館

このように、モガやモボは比較的自由に異性との交流を楽しんでいたことが分かります。
そのような彼らの行動は保守派の人々から「ふしだら」と批判されたこともありましたが、現代を生きる私たちからすればごく自然な交際に思えますよね。
とはいえ、当時はまだ男女交際を良く思っていない人も多かったので、批判されてしまうのも致し方なかったのかもしれません。

また、当時は若者だけでなくその親や大人世代にも恋愛に関する価値観に変化が現れ始めていたといいます。
大正時代頃になると、親の方も異性と交流することに理解を示すことが多かったそうです。
しかしやはり「異性との交流」と「恋愛・結婚」はまた別の話でした。
そのため当時も、異性との交流に恋愛が絡んでくると親から厳しく制限されることが多かったと言われています。

そして、当時は恋人同士のコミュニケーションも今と違いがあります。
今はスマホを使ってメッセージや電話でやり取りし、気軽に会うことができる時代ですよね。
しかし当時は当然スマホや携帯電話は存在しない時代であり、周りの目もあるので気軽に会うことができなかった時代でした。
そんな当時の恋人たちのコミュニケーションとして重宝されたのが、手紙です。

大正13年9月2日消印の手紙

親から恋愛を制限されている学生たちはこっそり文通で会話をしていたそうです。
また、大正時代には相手の着物の袖にラブレターを入れるナンパが流行していました。
しかし、厳格な家庭だと異性と手紙のやり取りをしただけで「不良」扱いされるため、文通すらも自由にできない人も多かったようです。

↓後半に続く


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