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無駄を許せない私たち 〜セミリタイアで「効率」を優先する生き方を考え直す〜

先日「お金から解放されて「今この瞬間」に生きる 〜セミリタイアしているからこそ考えたい「効率」以外の生きかた〜」の記事を書いた。

書いている途中、「いかに自分が『効率』を中心にモノゴトを考えているか?」 をイヤというほど感じたので、今回も「効率」中心の考え方について書いてみたい。

今回は「無駄を許せない心」について。


道を間違えてしまった

例えば、ナビに目的地を設定して車を運転している場面を想像して欲しい。

自分なんかはどうもナビに従って車を運転することが苦手なのでよくある話なのだが、曲がるべきところの一つ前の信号を曲がったり、気付いたら通り過ぎていたりする。いつもナビは新しいルートを検索している。

そんなとき、私の心は結構ざわつく。

あー、なんであの角を曲がらなかったのか?
そんな直前に言われても対応できないよね。
そもそもこのナビの表示わかりづらいし。
ここ左に行けば戻れたりするのかな?
5分は損した。ガソリンもちょっと減ったよね。
ま、ま、新しい道を知れたからよかったか。
こっちの方が道が広いから安全かもね。

別に誰に非難されるわけでもないし、よほど急いでいない限りちょっと遠回りしても大きな問題にはならない。なのに「無駄にした」って思いが自分の心をざわつかせる。

こういう時に事故を起こしやすかったりするので、注意が必要な時でもある。

無駄を強迫的に恐る心

私たちは何かを「無駄にした」と思った時に、その無駄が許せない。無意識の中に刷り込まれているかのように、無駄に対してはネガティブに反応する。


道を間違えて遠回りをしてしまった
自分がやった皿洗いを妻が再度洗い直している
資格試験がうまく行かず、再受験しなくてはいけなくなった
こないだ買った同じ服が半額セールになっていた
せっかく片付けた部屋を5分もたたないうちに子どもが汚した

このような状況を目の当たりにした時、心おだやかにはいられない。

ま、広い道に出れたし、こっちが安全だよね
俺の仕事を否定している妻は許せない
あの試験勉強時間は無駄だった、もう一回勉強する意味はあるのか?
ま、少し早く買えたことで今シーズン何回か着れたね。
コラー!!片付けなさい!!

怒ったり、言い訳したり、なだめすかしたり、自分の心はなんとかその無駄に折り合いを付けようと必死になる。

「効率」からきているんじゃないかな?

この必要以上に生じる「無駄」へのネガティブな反応は、いかに私たちが「効率」を中心に考えているか? の裏返しのように感じる。

効率を中心に考えようとすると、無駄は極力排除すべきものになる。

その考えが、自分の意識の奥の方まで染み込んでいるので、「無駄にした」っという思いが出てくると、無意識のうちに怒ったり、言い訳したり、なだめすかしたりして、心はざわつく。

極力排除すべき無駄を私たちは許せない。

セミリタイアは無駄を楽しむ

であれば、お金から開放を目指して、効率からの開放を目指しているセミリタイア生活は、無駄を楽しむ心が必要ではないだろうか?

道を間違えて遠回りしたら、回り道の景色を楽しみ

自分がやった皿洗いを妻が再度洗い直している二度目洗いの妻を愛おしみ

資格試験がうまく行かず、再受験しなくてはいけなくなったら、再受験の勉強を「さらに深く勉強できる」と考える

こないだ買った同じ服が半額セールになっていたら、その余分に払った分はその店へのチップとする

せっかく片付けた部屋を5分もたたないうちに子どもが汚したら、一緒になって子供と遊びを盛り上がる

嫌悪していた無駄こそが、人生にイロドリを与えてくれるものだと認識する。

そんな考え方も、セミリタイアには必要なのかな?っと考えたところです。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。


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