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この部屋から東京タワーは永遠に見れない
1991年生まれ。同い年である。
中高生の頃、東京に憧れていた。
HEROに野ブタ。アンフェア、ブザービート。
ドラマや小説に出てくるキラキラした街が眩しかった。
コブクロの「東京の冬」をよく聞いていた。
小さい頃から勉強が苦手ではなかった。
地元では物理的に通える大学は少なく、進学の為には街を出るのが自然に決まっていたような気がする。
ハイスクール出た奴らは次の朝バックを抱えて出てゆくのである。はましょー。
それとも潜在的に他の街に住んでみたくて、合法的かつ円満に街を出る為に勉強を頑張ってたのかしら。もう忘れた。
2009年3月、高3になる前にひとりで飛行機で東京に行った。
「大学を見てこい、キャンパスの雰囲気を感じて来い」
と誰かに言われた記憶もあるけど、大学は春休み中。
全く参考にならなかった。
南大沢やら藤沢やら、後はどこにいったんだっけ。
もう忘れた。
それでも、お天気お姉さんみたいな綺麗な学生さんや「SOPHIA」の文字の入ったスウェットに憧れて第一志望は決まった。
なんちゃって進学校の抑圧の反動か、とにかく都会でチャラチャラ遊びたかった。
異常な国公立信仰の雰囲気の中で「みんなとは違う」ことがしたかった自我が私立を選ばせたのかもしれない。
受験は失敗した。
いや、失敗と言えるかはわからない。
東京に行くことはなかった。
ある意味でそれは成功だったんだろうか。
東京に来なかったほうが幸せだった?
東京に行かず、いま満足できる人生を生きている。
別に行かないことを選んだわけでもなく。
流れに流されただけではある。
はたして東京に行ってたら…人生どうなっていたんだろう。どんな人生を歩んでいたんだろう。
そんなサンプルを少しだけ追体験できた。
東京に来なかったほうが幸せだった?
Twitterで凄まじい反響を呼んだ、虚無と諦念のショートストーリー集。
「3年4組のみんな、高校卒業おめでとう。最後に先生から話をします。大型チェーン店と閉塞感のほかに何もない国道沿いのこの街を捨てて東京に出て、早稲田大学の教育学部からメーカーに入って、僻地の工場勤務でうつになって、かつて唾を吐きかけたこの街に逃げるように戻ってきた先生の、あまりに惨めな人生の話をします。」(「3年4組のみんなへ」より)
「『30までお互い独身だったら結婚しよw』。三田のさくら水産での何てことのない飲み会で彼が言ったその言葉は、勢いで入れたタトゥーみたいに、恥ずかしいことに今でも私の心にへばりついています。今日は、彼と、彼の奥さんと、二人の3歳の娘の新居である流山おおたかの森に向かっています。」(「30まで独身だったら結婚しよ」より)
「私、カッパ見たことあるんですよ。それも二回。本当ですよ。桃を持って橋を渡ると出るんです。地元で一回、あと麻布十番で。本当ですよ。川面から、顔をニュッと目のところまで突き出して、その目で、東京にしがみつくために嘘をつき、人を騙す私を、何も言わず、でも責めるようにじっと見るんですよ。」(「カッパを見たことがあるんです」より)
14万イイネに達したツイートの改題「3年4組のみんなへ」をはじめ、書き下ろしを含む20の「Twitter文学」を収録。
【推薦コメント】
面白すぎて嫉妬した。俺には絶対に書けない。
――新庄耕さん(小説家・『狭小邸宅』『地面師たち』)
【著者略歴】
麻布競馬場(あざぶけいばじょう)
1991年生まれ。
東京に行ってたら挫折してたんだろうな。
と正直思う。
消防士になる前にいた超古典的JTCでそんな匂いを感じていた。
けどそんな挫折すら、してみたかったかもしれない。
地方から東京へ出て挫折したり、一見成功したような人の葛藤と哀愁。虚無や諦念。
重松清が書いて、馬場俊英が歌っていた。
少し世代は上だったけど、当時からその哀愁が大好きだった。
街を出る前、このまま勉強を続けた先に幸せがないかもしれないと感じていた。
もしも10年時を戻せるのなら同じ道を選ぶだろうか。聞いていた頃から10年以上が経ったけど、まだよくわからない。
世代どんぴしゃすぎて、心当たりあるような節もあってめちゃくちゃ楽しく読めました。
東京住んだことないけど。
今「タワマン文学」とやらが流行っているみたい。もう刺さって刺さって、最高です。
自分のダサさに浸りまくれます。
もっと読みたい。
次回作が楽しみだー。
以上
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