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身体とのコミュニケーションを重ねる、

いつからだろうか。

クライアントと時間をともに過ごしてゆく中で、その人の本音と思われる声と、建前とも言えるような声の二面性を感じだしたのは。
どちらもその人から発しているのはたしか、だが、後者のそれは、その人のどことどう話をしていいのかわからなくなることがある。

2022年6月より前の自分は、この二面性とも呼べる現象に気づきもしないまま、分厚い鎧をまとって日々を生きていた。

そのときはじめて生身の自分にふれたような感覚があったが、とてもじゃないけど言葉にし尽くせる経験ではなかった。その場に居合わせた仲間はその様子をじっと見守っていてくれた。そして、妻は帰ってきた私をみて「ガラスのようだった」と言った。

あの瞬間から、いや、あの前から序章ははじまっていたのかもしれない。今まで身を置いてきた筋トレやトレーニングと言われる世界、そこで培ってきたものになんとなく違和感を感じ、その世界から離れる準備をしていたのかもしれない。

身体とコミュニケーションを重ねることができるようになった、と言えるのはその頃からだったと思う。

身体とコミュニケーションがとれるようになると、今まで感じていなかったことに気づきはじめることがあります。この現象に戸惑うクライアントもいて度々相談されます。

身体にいいはずの運動をしているはずなのに、今まで感じていなかった異変や違和感に気づきやすくなるのは、いいことをしているのか、誤った方向へ進んでいるのか、混乱してくるんですよね。

人によっては「やりすぎてしまう」「頑張りすぎてしまう」「目一杯までやってしまう」ことで違和感につながっていることもあるから、判断が難しいところもありますが、経験を重ね、観察をくりかえしてゆくとその様子も捉えられるようになるのかな、と思います。

刻々と変わる身体を観察する


ヨーガをしていると自分にとって難易度の高いポーズに出会します。そのときポーズの形を再現しようと無理をして怪我をしてしまうことも、からだの身の丈に合わないがんばりをすることでひどく疲れてしまうこともあります。


その日のヨーガをどうやって過ごすか(ヨーガでなくとも)。

ここに経験の源泉があります。

やり過ぎてしまうことも、うまくゆかないことも含めて経験を重ねてゆく。

どうしたら疲れないのか?
どうしたら体力がつくのか?
どうしたら姿勢がよくなるのか?

ということに目が向きがちだけど、それらは身体を動かしている最中にわりと多くヒントがふくまれています。

身体を動かしてみないことにはわからないけれど、少なくとも頭に入れたもので身体がよくなることはないんですよね。動かしてみないことにははじまらない。

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